柳宗悦「南無阿弥陀仏」

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柳宗悦は、民芸の研究者として知られている。その柳宗悦が念仏に深い関心を抱いたのは、宗教的な動機からではないらしい。本人が、自分は宗教的な人間ではないといっているから、それはそうなのだろう。その柳がなぜ、念仏に深い関心を寄せるようになったのか。それは民芸の担い手たちの多くが、念仏衆が言うところの「妙好人」の面影をたたえているからだと思ったことによると、本人は言っている。こんなすばらしい民芸を生む出すことができるのは、名もない人間でありながら、深い宗教心に支えられたその生き方が、作品となって表現されるからだ。そんなすばらしい生き方を、念仏が実現している。そう考えたからこそ柳は、念仏に深い関心を持つようになったということらしい。

念仏とは「南無阿弥陀仏」の六文字を、心のなかで、あるいは口に出して称えることである。念仏は、浄土思想に由来し、その浄土思想は中国で生まれたものらしいが、これが日本に入って来ると、独自の発展をとげた。浄土思想というのは、浄土教をよりどころとするもので、その本旨は他力信仰にある。他力信仰というのは、絶対者に帰依することで救済されることを願うというもので、その場合の絶対者というのが阿弥陀仏なのである。日本ではその阿弥陀仏信仰が、他力信仰として独自の発展を示した。他力信仰が究極すると一神教のような様相を呈する。一神教というのは、ユダヤ・キリスト教やイスラームがそうであるように、唯一神に絶対的に帰依する宗教である。鈴木大拙は、宗教というものは究極的には一神教の形をとるものであって、仏教では阿弥陀仏信仰がそれにふさわしいと言った。鈴木大拙によれば阿弥陀信仰は、仏教のもっとも進んだ形ということになる。もっとも大拙自身は、他力の阿弥陀仏信仰よりは、自力の禅のほうに一身をかけたのではあったが。

柳宗悦は、他力信仰としての阿弥陀仏信仰を、自力との比較を通じて説明したり、阿弥陀仏信仰内部での発展について語っている。ここで説明という言葉を使ったのは、柳自身、自分は宗教者ではないので、宗教者としての語り方はできない。あくまでも外部者の目で、阿弥陀仏信仰を、いわば客観的に説明することしかできない、と言っていることによる。柳はこう言うことで、自分は宗教としての阿弥陀仏信仰をこの本のなかで勧めているわけではなく、学問の対象として阿弥陀仏信仰に接しているのだと言っているわけである。

柳は学問の対象としての阿弥陀信仰を、様々な視点から見てゆく。まずは、自力信仰との比較において。というのも、自力信仰と比較することで、他力信仰としての阿弥陀仏信仰の特徴が、もっとも明瞭に浮かび上がって来るからである。

仏教はもともと自力救済をめざす宗教として始まった。自力で救済されることを願うわけだから、宗教というより運動といったほうがよい。その運動の中で本当に救済される人間はごく少数だった。というのは、救済されるためには、厳しい修業が必要であり、しかもその修業にあたっては現世での生活を捨てて、僧侶集団の中に身を寄せ、良民の喜捨にすがって暮らしていくという情感があったために、それに応えられる人がおのずから限られていたのである。したがって原始仏教といわれる状態の仏教においては、救済されるのはごく一部の人間であって、しかもその救済された境地も、いまの日本で言う成仏というようなものではなく、阿羅漢といってそれより一段位の低い境地であった。成仏というのは、文字通り仏になることであるが、阿羅漢というのは悟りを開いた人という意味で、仏になるという意味は含まれていない。悟りを開くというのは、この世の無常を深く悟り、そのことによって輪廻から脱出し、永遠の無に埋没することを意味した。仏教のそもそもの目的は輪廻から解脱することにあったのである。それはいわば功利的な目的だと言えないわけでもないので、仏教の批判者たちは、仏教は宗教ではないと言ったものである。

原始仏教や、その影響を色濃く残す上座部仏教が、自力によって自己の魂の救済を目指し、したがって少数のエリートたちのための運動に止まったのに対して、日本に伝わった大乗仏教は、単に僧侶として修業する人間のみならず、世俗的な暮らしをしている多くの一般の人も救われると主張するものである。その主張にはポイントが二つあって、一つは、誰でも願いさえすれば悟りを開くことができるというもの、もう一つは、人は仏になれる、つまり成仏できるというものである。願いさえすればといっても、無条件というわけではない。ある程度の修行が必要だったり、善を行うことが条件になっている。とはいえ、原始仏教におけるような厳しい修業は要求されない。善意の心をもって、それ相応の生き方をしていれば、救われると説くのである。また仏になれるということは、原始仏教が全く予想していなかったことで、これが大乗仏教の最大の特徴かもしれない。一神教を始め、世界のほとんどの宗教において、人間が仏になるというのは、人間が神になるというのと同じで、ナンセンス以外の何物でもないが、仏教においては、人間が仏、つまり他の宗教で言う神になれるのである。そういう考えは、大乗仏教各派が多かれ少なかれ持っているものであるが、とくに法華経を重んじる宗派にはそういう傾向が強い。

善意の心を以て、それ相応の生き方をすると言ったが、それが自力信仰における自力の内容である。自力というのは、自分の意思によって善行をなし、その褒美のようなかたちで己の救済を期待するのである。だから自力と言っても、厳しい修業のイメージはあまりなく、あくまでも救済への主体的な意思ということを意味する。自分は救済されるためにかくかくの善行をしている。その善行は報われるに違いない。そういう確信が自力という言葉の内実である。

それに対して他力は、これは浄土宗各派に共通するものとして、人間のそうした意思に重要な意義を求めない。人間が救われるのは、自力によってではない。阿弥陀仏の慈悲によってである。だから、自分がいくら自力にすがっても、救済されるとは限らない。救済は阿弥陀仏の慈悲次第なのである。それ故人間たちは、その救済を求めて阿弥陀仏にすがるしかない。それが他力という言葉の意味である。ただひたすら阿弥陀仏にすがることで、阿弥陀仏の慈悲にあずかる、というのが他力信仰の内実である。ではどのようにしてすがればよいのか。阿弥陀仏の名号を称えるだけでよい。南無阿弥陀仏の六文字を唱えることがそれである。人間は南無阿弥陀仏の六字を称えることで、阿弥陀仏の慈悲にあずかれる。そうすれば、人間は成仏できる、と浄土宗各派は主張するのである。

自力によってにせよ、他力によってにせよ、人間が最終的に到達を目指しているのは仏になることである。目的は一致している。ただその方法に多少の違いがあるに過ぎない。それは、富士に上るのに、東から上るか西から上るかの違いであって、頂上にたどりつけば、同じ効果をもたらすのである。だから自力と他力との関係は、対立とか反目とかいったことではない。対立し反目しあっているのではなく、異なった方法で、同じ目的を追求しているだけだ。そう柳宗悦はいって、日本の仏教各派に、価値上の優劣をつけようとはしないのである。






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