労賃:資本論を読む

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労賃という概念は、アダム・スミスに始まる古典派経済学に特有の概念だとマルクスは言う。労賃は、労働力の価値ではなく、労働の価値によって基礎づけられる。人間そのものの価値ではなく、人間の一定の労働に対して支払われる価格、それが労賃だと言うわけである。そうすることによって古典派経済学は、労働力という商品に含まれている価値と使用価値、それに対応する支払賃金と不払い賃金の対立・矛盾といったものを覆い隠す、とマルクスは批判するのだ。

マルクスによれば、労働力の価値=価格とは、一労働日のうち労働者の再生産に必要な部分(必要労働の部分)をカバーするために支払われるものだが、その労働力は必要労働の部分を超えた剰余労働をもたらす。ところが労賃という概念は、必要労働と剰余労働との区別を消してしまう。一労働日を12時間とし、必要労働部分を6時間とすれば、必要労働をあらわしている3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の一労働日全体の価値または価格として現われるのである。これは欺瞞的なことだとマルクスは批判する。古典派経済学が持ち出す「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働に分かれ、支払い労働と不払い労働に分かれることのいっさいの痕跡を消し去る」というのである。つまり労賃という概念のもとでは、「すべての労働が支払い労働として現われるのである」

マルクスは言う、「夫役では、夫役民が自分のために行う労働と彼が領主のために行う強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり事実上自分のために労働する部分さえ、彼の主人のための労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払い労働でさえも、支払われるものとして現われる」

マルクスは続けて言う、「このことから、労働力の価値と価格が労賃という形態に、すなわち労働そのものの価値と価格に転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような、現実の関係を目に見えなくしてその反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである」

この幻想に、アダム・スミスもまたとらわれていたとマルクスは指摘する。スミスによれば、労賃は労働についての完全な支払いなのであるから、その価値は、労働力の再生産に必要な労働が増減し、それによって労働力の価値が変化しても、不変でありうる。労働の価値と労働力の価値は、スミスにあっては別のものなのだ。

労賃を労働の価値への支払いと見る立場からは、時間賃金や出来高賃金が合理化される。時間賃金は労働時間に応じて支払われ、出来高賃金は労働の結果に対して支払われる。この関係においては、労働力の価値自体は問題にならない。この形態での労賃は、労働力の価値に対して支払われるのではなく、あくまでも労働の成果に対して支払われるという外観を呈するのである。

時間賃金は、一労働日の労賃を平均的な労働時間で割ったものだが、そのことによって、かえって、労働時間の延長に拍車をかけることがある。とくに、労働者の間で競争が起きる場合にはそうである。「労働者のあいだに引き起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をいっそう引き延ばすことを可能にする」

ところで、労働のうちの不払い部分は、資本家たちの間の競争手段になるとマルクスは指摘する。労働のうちの不払い部分については、これを商品価格に反映させずに、その分安く売ることで、競争上優位に立てる。競争はやがてすべての資本家を巻き込むので、安売り競争は全面化する。その結果、異常に低い商品価格が一般化する。それがまた「過度な労働時間でのみじめな労賃の不変な基礎」になるとマルクスは指摘するのだ。

出来高賃金は、労働者の作業能力に対して支払われるものである。したがって作業能力の高い労働者は、低い労働者に比べて高い賃金を得ることができる。これは労働者にとって一定のモチベーションとして働く。資本家は、だまっていても労働者にがんばらせることができるわけである。そのことで、労働監督の大きな部分が不要になる。また、出来高払いを前提にして、ある人間に製品の生産等々を一括委託することもできる。この場合には、労働者による労働者の搾取が起きるとマルクスは指摘する。要するに、本来資本家の役目であるところのものが、出来高払い制では労働者に転化することができるのである。したがって出来高払い制は、資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態だというわけである。

ところで、古典派経済学の正統な後継者を自認している今日の主流派経済学は、労賃をどのように捉えているだろうか。労賃も又、商品の価格同様、需要と供給とのバランスによって決まると、それは捉える。労働の売り手としての労働者と、買い手としての資本家とが、自由な市場において、自由意思にもとづいて取引し、その結果労働の価格である労賃が決まるというわけである。これは自由な取引であるから、売り手も買い手もどちらも結果に満足しているはずだ。労働者は、自分の自由な意思にもとづいて決まった労賃について、不満を言う筋合いはない、ということになる。

そう言うことで今日の主流派経済学は、労賃が労働者の生活の基礎になっているという事実に目をつぶることができるのである。したがって、外部からの規制がない限り、労賃はとめどなく下がっていく傾向が、主流派経済学が代表している資本主義的経済には内在していると言えるのである。






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