利潤の平均利潤への転化:資本論を読む

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利潤と剰余価値は、量的には同じものである。利潤率と剰余価値率は違う。剰余価値率は、可変資本(労賃)と比較した剰余価値の割合をあらわすのに対して、利潤率のほうは前貸し資本としての費用価格すなわち不変資本プラス可変資本と比較した利潤の割合をあらわすからである。だから、利潤率は常に剰余価値率より低くなる道理である。しかも利潤率は、全産業を通じて平均化される傾向がある。競争が働くからである。産業間で利潤率にデコボコがあれば、資本の流動が円滑に行われるという前提のもとでは、利潤率の高い分野に資本は流れる。そうした動きが利潤率を平均化させるのである。マルクスは資本論第三部第二編「利潤の平均利潤への転化」において、個別の利潤率がいかにして平均化されるか、そのメカニズムを分析している。

マルクスは、不変資本と可変資本との組み合わせを資本の有機的構成と呼んでいる。一定量の生産手段を動かすには一定量の労働が必要である。この労働=可変資本と生産手段である不変資本とについて、それぞれの価値の比率であらわしたものが資本の有機的構成である。マルクスは、不変資本の割合が高いものほど、一定量の労働によって動かされる生産手段の割合が大きくなることを根拠にして、それを有機的構成が高いと呼ぶ。逆の場合には有機的構成が低いと言う。つまり有機的構成の相違は、労働生産性の相違を反映しているわけである。

利潤率は、資本の回転期間を度外視すれば、資本の有機的構成に応じて違ってくる。剰余価値率が同じだと前提すれば、百分比であらわした有機的構成のうち、可変資本の割合が高いほど利潤率も高くなる。可変資本こそ剰余価値を生む源泉であるわけだから、その割合が高ければ、利潤率も高くなる道理である。

これをつぎの例によって説明しよう。
 Ⅰ 80c+20v+20m=120p 20%
 Ⅱ 70c+30v+30m=130p 30%
 Ⅲ 90c+10v+10m=110p 10% 
cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値、%は利潤率である。このケースでは、Ⅰを標準的なものとして想定し、そこでの利潤率が20%とした。Ⅱは有機的構成が低くなった場合であり、利潤率は30%で、標準より増えている。逆にⅢは有機的構成が高くなった場合であり、利潤率は10&で、標準より減っている。

この例が物語っているのは、要するに、資本の有機的構成が異なれば、利潤率も異なるということである。利潤率はこのほか資本の回転率によっても異なってくるが、ここではそれを度外視する。

以上は、個別の資本家の立場に立ったものであり、商品が、労働力も含めて、すべてその価値通りに売れるということを前提としている。この前提のもとでは、商品の価格は、不変資本のうち当該商品の生産に費やされた部分の価値と、可変資本としての労働力の価値からなっている。競争を度外視すれば、商品はその価値通りに売れ、したがって利潤率は費用価格と比較した利潤の割合ということになる。

しかし、競争が働くと、事情は違ってくる。上の例で言えば、同じ商品を生産するのでも、そのための資本の有機的構成は異なる場合が多いと想定される。つまり有機的構成の異なったさまざまな資本家が、同じ商品を作って売るということになる。その場合に、商品の価格が実際の費用価格を反映したものになるとは限らない。商品は基本的には一物一価である。同じ商品であれば、高いものは売れないわけで、おのずから売れる水準の価格が、平均価格として成立してくる。高い生産費の商品は実際の生産費よりも安く売ることを強いられ、安い生産費の商品は、実際の生産費より高く売ることができるのである。

では、その平均価格はどのようにして成立するのか。特定の商品について言えば、社会全体としてその生産のために費やされた費用価格全部に剰余価値全体を足したものでその商品の全体の価格を設定し、それを商品の数で割ったものが、その商品の平均価格になる。上の例で見れば、全体としての費用価格は300であり、剰余価値は60であるから、平均価格は360を3で割った120になる。

この事情をマルクスは次のように説明している。「彼ら(資本家)は、彼ら自身の部面でこれらの商品の生産にさいして生産された剰余価値を、したがってまた利潤を、手に入れるのではなく、ただ、すべての生産部面をひっくるめて社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割りあたるだけの剰余価値を、したがって利潤を、手に入れるだけである」

その平均利潤の割合をマルクスは一般的利潤率と呼んでいる。一般的利潤率は、利潤の平均化によって形成される。それをもたらすのは競争である。競争は、個別の商品分野のみならず、すべての産業部面で働くから、一般利潤率は社会全体をカバーする。同一の商品の利潤率が平均化されるばかりではなく、すべての商品の利潤率が平均化される。それは更に発展して、全社会的な規模において、資本のもたらす利潤率が平均化されるのである。それは、金融論的なタームで言えば、利子率と言った形をとる。利子というのは、基本的には、資本のもたらす果実のことを言うのであり、その水準は利率という形をとる。利子率は、資本のもたらす一般的利潤率に厳密に対応しているわけではないが、その近似値であることは間違いない。

ともあれ、一般的利潤率を費用価格に上乗せしたものが、ある商品について最終的に成立する価格である。それをマルクスは生産価格と呼んでいる。個別の資本家が受け取るのは、この生産価格である。それは当然費用価格より高くなければならない。何故なら、費用価格を下回っては、前貸し資本が回収できないからである。個別の資本家には、実際に費やした費用よりも安く商品を売るという選択肢はあるが、その選択の幅は自ずから限られている。利潤を生みだす範囲内での選択、それは費用価格より幾分かでも高い価格で売るということである。

以上を通じて明らかになったことは、個別の資本家にとっては、商品価格の決定は、彼自身の個別的な生産過程によって決まるのではなく、市場において形成される、いわば外在的な要因によって決定されるように見えるということである。これは実際にその通りなのであって、個別の資本家は、市場によって決められる外的基準にしたがって自分の商品を売らざるを得ない。それゆえ彼の目には、たしかに前提としての費用価格を超えて売るわけにはいかないという制約はあるにしても、市場を通じて成立する生産価格(費用価格プラス平均利潤)はかなり偶然に決まるというふうに見えるのである。

マルクスは言う、「ある一つの特殊な生産部面で現実に生産される剰余価値、したがってまた利潤が、商品の販売価格に含まれている利潤と一致するのは、もはや偶然でしかない。通例は利潤と剰余価値とは、単にそれらの率が違うだけではなく、今では現実に違う量である・・・いまや特殊な生産部面の中での利潤と剰余価値とのあいだの~単に利潤率と剰余価値率とのあいだだけのではなく~現実の量的相違は、ここで自分を欺くことに特別な関心をもっている資本家にとってだけではなく、労働者にとっても、利潤の本性と源泉とをすっかりおおい隠してしまうのである。価値が生産価格に転化すれば、価値規定そのものの基礎は見えなくなってしまう」

マルクスはこういうことで、資本家とその代理人である俗流経済学者が、剰余価値の本質と源泉を無視して、市場で演じられる(需要と供給という)ゲームにもっぱら注目することの、それなりの合理的理由を見るとともに、その欺瞞性をするどく指摘しているわけである。






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