剰余価値と利潤その二:資本論を読む

| コメント(0)
資本論第三巻「資本主義的生産の総過程」は、剰余価値の利潤への転化についての分析から始まる。転化といっても、あるものが別のあるものに転化し、それに従って内実も変化するということではない。剰余価値も利潤も、その内実は同じものである。ただ呼び方が異なっているに過ぎない。しかし呼び方の相違は、概念の実質的な変化を伴なうのである。マルクスはそこに、資本家の立場からする現実的な利害と、資本家の立場を弁明する資本主義経済学の欺瞞を見る。

剰余価値という概念は、労働力がその価格(労賃)を超えて生み出す超過価値をさしていう。つまり、可変資本にたいするその超過分である。その割合を剰余価値率という。これを式で表すと、m/vとなる。100ポンドの可変資本が100ポンドの剰余価値を生みだせば、その剰余価値率は100パーセントである。剰余価値の生産には、不変資本は一切かかわらない。

これに対して利潤という概念は、前貸し総資本に対する価値の超過分をさしていう。前貸し総資本をマルクスは費用価格と呼んでいる。商品の生産に必要な費用という意味である。費用価格はc+vであらわされる。cは不変資本、vは可変資本である。利潤は、費用価格を超過する部分であるから、利潤率は費用価格に対する利潤の割合としてあらわされる。式であらわすと、p/c+vである。利潤pと剰余価値mとは、量的には全く同じものであるが、利潤率と剰余価値率は異なる。利潤率のほうが剰余価値率よりも低くなるのは、分母にcが加わるからである。c+vはvよりも当然大きい。

利潤という概念を持ち込むことで、剰余価値の本質があいまいにされるとマルクスは言う。剰余価値はあくまで労働力の搾取から生まれるのに、利潤は前貸し資本との比較で見られるために、前貸し資本の構成要素全体とかかわりがあるように見えるのである。マルクスによれば、剰余価値の生産には不変資本は何のかかわりもないが、資本家が利潤を問題にする時には、不変資本を含めた費用価格全体が、利潤の獲得に関わるように見える。そういう見方を代表したものとして、マルクスはマルサスの次のような言葉を引用している。「資本家は自分が前貸しする資本のどの部分についても等しい利益を期待する」

こういう見方は、利潤が商品の流通過程を通じて実現されるということで強化される。流通過程では競争が働くことによって、商品はその価値通りで売れるとは限らない。費用価格よりずっと高く売れることもあれば、費用価格ぎりぎりでしか売れないこともある。そういう事情があるために、利潤はますます流通過程から生まれるというふうに見えるのである。

ともあれ、資本家の現実的な関心の対象は、自分が投下した前貸し資本から、どれほどの利潤が生まれるかという点に集中する。つまり、剰余価値率ではなく、利潤率がかれの関心の的なのである。どれほど大きな利潤率が実現できるか。それが彼の関心事項である。

剰余価値は、可変資本との関係でのみ測られるから、剰余価値率の上昇のためには、可変資本に対する剰余価値の割合を高めることが求められる。具体的に言えば、絶対的及び相対的剰余価値の増加ということになるが、それはつきつめれば、いかに労働力を効果的に搾取するかということになる。

それに対して利潤率は、費用価格に対する利潤の割合を意味するから、利潤率を高めるためには、分母である費用価格を構成する要素全体がかかわってくる。つまり、不変資本と可変資本の両方の動きが利潤率にかかわる。利潤率をあげるためには、分子である剰余価値の部分をあげる、つまり搾取を強めるということのほかに、不変資本あるいは可変資本の部分を減少させるという方法があるわけである。

マルクスは、不変資本のさまざまな要素や可変資本の価格の変化が利潤率に及ぼす影響について、精緻な数式を用いてマニアックな分析をほどこしている。こういうやり方は、論文を退屈にさせるものだが、マルクスはあえてそれを苦にしない。第一部でもそういう傾向は見られたのだが、第三部に至って極限の域に達しているといえる。

利潤率をあげるためのもっとも手っ取り早い方法は、不変資本のうち、建物や機械といった固定資本の部分を節約することである。じっさいそういう節約は、資本主義の初期には広範に見られたのであって、それが危険で不衛生な労働環境につながっていた。マルクスは言う、「この節約の範囲は広がって、資本家が建物の節約だと称する不健康な場所への労働者の詰込みや、同じ場所に危険な機械類を寄せ集めておいて危険に対する防止手段を怠ることや、その性質上健康に有害だとか鉱山でのように危険を伴っているような生産過程で予防策を怠ることにまで及んでいる」

資本家のこうした傾向は、それ自体にまかせていては絶対に防ぎようがないので、労働者の健康や安全を守らせるためには、外部からそれを強制するよりほかはない。じっさい、資本主義の歴史はそうした動きをたどってきたのであって、日本を含めた先進資本主義国では、労働者保護のための法制を整備して、外部から資本家に圧力をかけてきたのである。もっともマルクス自身は、そうした動きに期待をかけているわけではない。労働者階級は、国を動かして改良主義的な成果をあげるのではなく、革命を通じてそれを廃絶させるべきだと考えていたからだ。

こうした極端なケースを除いても、資本家は利潤率をあげるためにさまざまな工夫を行っている。たとえば原料を少しでも安く調達するとか、資本の回転期間を短くすることで剰余価値を増加させ、結果として可変資本価格を低下させるといったやり方である。そうした工夫の余地があるということは、マルクスによれば、「資本家を惑わせて、自分の利潤は労働の搾取のおかげではなく、少なくとも一部分は労働の搾取とは無関係な別の事情、ことに自分の個人的な行為のおかげだと確信させるのである」

このマルクスの指摘は、労働者をギリギリの条件で酷使しながら、自分は気の遠くなるような巨額な報酬を得ている今日の経営者たちにも当てはまる。かれらは(たとえばカルロス・ゴーンのように)、自分が巨額の報酬を得ているのは、それに相応しい仕事を自分がしているからだと強弁している。会社の利益はコストカットにもとづくものであり、それを工夫したのは自分なのだから、高い報酬をもらっても当たり前だということになる。

ともあれ、剰余価値率と利潤率との関係をマルクスは次のように表現している。「剰余価値と剰余価値率とは、相対的に目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現れているものである」






コメントする

アーカイブ