義和団事件と日本の中国進出:近現代の日中関係

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日清戦争で清国が敗北したことは、列強の清国蔑視を亢進させ、清国への侵略を加速させた。1900年をピークとする義和団事件は、列強の中国侵略を加速するうえでの口実として使われた。というのも、西太后ら清国の王室が義和団に味方して西洋諸国に敵対する行動をとったため、西洋列強は単に義和団を討伐するのみならず、義和団による混乱の責任を清国政府自体にも求め、過酷な要求をしたからである。

義和団の前身は義和挙といった。これは山東省を中心にした反キリスト教・反西洋運動であり、1898年頃に結成された。その頃までに、山東省の運河地帯を中心にキリスト教の拡大が目覚しく、キリスト教徒と土地の住民との間でトラブルが頻発するようになった。一方、清国の弱体ぶりに附け込んだドイツが膠州湾周辺地域を実質的に支配するようになった。こうした状況は、西洋諸国がキリスト教の布教を通じて清国を支配するものだとする考えを生み出し、それが反キリスト教・反西洋運動としての義和挙の誕生に結びついたのであった。義和挙は、「順清滅洋」をスローガンとしたことから、清国の保守派から評価された。そのため山東巡撫毓賢は義和挙の取り締まりに消極的であった。

義和挙は、やはり山東省内で活動していた神挙と結合し、義和団を名乗るようになった。1899年頃のことである。義和団は、「扶清滅洋」をスローガンに掲げ、キリスト教への攻撃や西洋列強にかかわりのある施設などへの攻撃を始めた。それに対して毓賢は許容的な姿勢で臨んだため、ドイツをはじめとする列強は、義和団の取締りの強化と毓賢の解任を求めた。この要求に従い、清国は袁世凱を山東巡撫に任命した(1900年3月)。袁世凱はそもそも李鴻章の部下だったが、朝鮮への出兵について清国軍の司令官として名声を確立した後、自分自身の軍隊を持つようになっていた。武衛右軍といって、当時の中国におけるもっとも西洋化された近代的な軍隊であった。

袁世凱は義和団を徹底的に弾圧した。そのため義和団は山東省内にいることができなくなり、隣接する直隷省に押し出された。そのことで新たな混乱の種を作るようになる。なお、袁世凱による義和団の弾圧については、莫言の小説「白檀の刑」がテーマとして取り上げている。この小説は、義和団の行動を西洋列強による侵略への中国民衆の草の根の戦いと位置づけており、それを弾圧する袁世凱は漢奸と呼ばれている。その漢奸が後に(わずかな期間とはいえ)中国皇帝となるのであるから、中国というのはある意味無茶苦茶が通る世界だと言えよう。

義和団が北京周辺で活動するようになると、西洋列強は警戒を強め、清国政府に取締りの強化を求めた。それに対して政府部内で意見の対立があった。義和団を乱民と位置づけその取締りを主張するものがある一方、西太后は義和団に同情的だった。結局西太后の意見がとおり、6月19日に清国は八カ国(独墺米仏英伊日露)からなる列強に宣戦布告をしたのである。

清国軍は北京の東交民巷へ攻撃を仕掛けた。東交民巷とは各国の公使館が集まっている地域で、天安門広場の東側に位置していた。そこには、約800人の外国人と3000人の中国人キリスト教徒がいた。この攻撃にともなって、ドイツ公司ケッテラーが殺害され、また日本公使館の杉山彬書記官が殺害されるという事態もおきた。

東交民巷への清国軍の攻撃は50日以上にわたり、8月14日に八カ国連合軍が北京に侵入したことで終わった。この期間中、清国軍に包囲された公使館地区の防衛にあたったのは、わずかな数の軍隊であったが、その中心となったのは日本軍であった。その司令官を務めたのが柴五郎中佐である。柴五郎中佐は、日本大使館の駐在武官として北京にいたが、各国の軍隊と連絡しながら、公使館地区の防衛に尽力した。その活動振りは、各国特に英国から高く評価されるところとなり、後の日英同盟締結に非常によい影響を及ぼしたとされる。なお、柴五郎は会津藩士の子であり、会津戦争の際にはまだ小さな子どもであったが、父にしたがって下北半島の僻地で流民同様の暮らしをした後、出来たばかりの日本海軍に入隊し、軍人として生きてきた。厳しい境遇の中でも、父親から叩き込まれた武士道精神を生涯忘れなかった人である。

義和団事件の混乱に乗じて、列強による中国侵略の動きも見られた。もっとも露骨だったのはロシアによる満州占領であった。ロシアは日清戦争の結果としての日本の遼東半島支配に強く反対したにかかわらず、自分では満州進出の意欲を隠そうとしなかった。それが義和団の混乱に乗じた満州占領につながったわけだが、それについては李鴻章との結びつきが大きく働いたとされる。李鴻章は、対日関係でのロシアの協力を条件に、ロシアに満州での利権を約束していたのである。

一方日本も、江南地域への足がかりとしてアモイ占領をねらったが、これは英米の強い反対にあって頓挫した。

義和団をめぐる清国と列強との戦争状態を収束させるための条約が1901年9月7日に締結された。辛丑和約といって、連合軍を構成した八カ国に三カ国(白蘭西)を加えた十一カ国と清国との間の条約だった。この条約で、清国は懲罰的な賠償金を課された上に、通商面や領土保全の面で一層の譲歩をせまられた。もっとも重要なのは、北京と天津を結ぶ地域に外国の占領権を認めさせられたことである。この権利にもとづいて、日本も当該地域に駐兵した。その駐兵はずっと続き、日中戦争の勃発にあたって一役かうことになる。1937年に盧溝橋事件を起して日中戦争の戦端を開いたのは、辛丑和約にもとづいてこの地域に駐屯していた部隊(支那駐屯軍)だったのである。






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