貨幣資本と現実資本:資本論を読む

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貨幣資本と現実資本をめぐるマルクスの議論は、今風にいえば、金融と実体経済の関係論ということになろう。この議論においてマルクスが設定するのは次の二つの問題である。一つは、本来の貨幣資本の蓄積が、どの程度まで現実の資本蓄積の指標であるのか、もう一つは、貨幣逼迫すなわち貸付資本の欠乏は、どの程度まで現実資本(商品資本と生産資本)の欠乏を表わしているのか、ということである。ここで貨幣資本の「蓄積」と言っているのは、おおよそ貨幣資本の増加と同じ意味で使われている。

以上のマルクスの問題意識を、今風に言い表せば、金融緩和が実体経済をどのように活性化するのか、及び、金融逼迫が実体経済をどのように委縮させるか、ということになろう。

マルクスはまず、一つ目の問題、すなわち貨幣の増加と現実資本の拡大の関係について分析する。マルクスが貨幣資本として取り上げているのは、主に貸し付け資本のことである。信用が発達した時代には、産業資本家は、自分の手持ち現金を前貸しして事業を行うより、銀行から貨幣資本を借りて事業を行うことが圧倒的に多いからである。銀行は、他人から預かった遊休貨幣を、別の他人に貸し出すことで、それを資本に転化させる媒介役を果たすわけである。銀行の機能はほかにもある。手形の割引とか、運転資金の貸し付けとかを通じて、信用を拡大させたり、再生産過程の潤滑な運行を助けたりする。

マルクスは、経済が順調に動いている限り、貸付貨幣資本の量は、現実資本の要求に対応したものになるはずだと考えている。だから貸付貨幣資本の価格である利子も、現実資本の状態を反映したものになる。経済が活況を呈し、商品への需要が高まると、供給を拡大するための前貸し資本への需要も増大し、それが利子率を上昇させる。逆に商品への需要が低迷し、前貸し資本への需要も減少すれば、利子率は低下する。

つまり、前貸し貨幣資本の動きは、おおよそ実体経済の動きに並行しているわけである。この動きの要素としてマルクスがもっとも注目しているのは、労働力をめぐる需給関係である。労働力こそが、経済の動きを反映するもっとも正直なメルクマールなのであり、経済の動きの結果でもあり、また同時に経済の動きの原因にもなると言うのである。

經濟の諸メルクマール、すなわち生産の拡大とか利子率の変動とかに、労働力が果たす役割をマルクスは次のようにシミュレーションしている。経済が活性化すると、労働力への需要が高まる。労働力への需要の高まりは、可変資本への需要を増やすので、従って貨幣資本への需要を増大させ、そのことで利子率を上げる。労働力への需要のたかまりはまた、労賃を上昇させる。労賃の上昇は、ストレートには利潤の増大につながらない。むしろ利潤を減らす効果の方が大きい。

労働力をめぐるマルクスの議論はとりあえずここまでだが、マルクスは、経済の実質的要素である商品の需要と供給の関係を、労働力によって代表させているわけである。なぜなら、労働力も、特殊な形態ではあるが、商品には違いないからだ。その商品としての労働力が、経済の現実的な状況をもっともわかりやすい形で物語っているわけである。今日でも、経済の好況不況が雇用の状況で判断されているのは、以上のような事情があるからだと言える。

以上のことは、今日インフレとかデフレといった現象を分析するときに大事な視点を与える。インフレとかデフレは貨幣現象と見なされているが、実は実体経済の変動を原因としている。インフレは、経済の実態を超えて貨幣が膨張していることの結果だとされるが、実はそうではない。貨幣が膨張するのは、貨幣への需要が増大したことの結果であるが、それは商品への需要が増大したことの結果である。また、商品への需要が増大すれば、供給も増えるわけで、それが生産の拡大をうながす。生産の拡大は貨幣への需要を生み、それが利子率を高くする。また労働力への需要を高めて労賃を高くする。こうした事情が積み重なると、物価の一般的な上昇傾向が強まり、それがインフレという形をとるわけである。したがって、インフレとは、貨幣現象である前に、実体経済の過熱をあらわしているわけである。デフレについては、インフレとは逆の事情が働く。商品への需要が減少し、それが供給の減少と労賃の下落をもたらし、経済全体が低迷する。その低迷は物価の下落という形をとるので、貨幣現象とみなされがちだが、実は、インフレ同様実体経済の変動にその原因をもっているのである。

貨幣資本と現実資本の対応関係が大きく崩れるのは、恐慌の場合である。マルクスは、恐慌こそ資本主義的生産様式の矛盾が集約的にあらわれる事態だと考え、恐慌にはなみなみならぬ関心を示している。恐慌には、貨幣恐慌と過剰生産恐慌との二つのケースがあるとマルクスは考える。貨幣恐慌は、今風にいえば金融恐慌である。20世紀に起きた恐慌は、すべて金融恐慌の様相を呈しているので、主流派経済学は、金融恐慌をもって全恐慌を代表させる嫌いがないではないが、恐慌の本質はあくまでも過剰生産恐慌であり、金融恐慌は、それを金融面から見たものにすぎないというのがマルクスの見方である。

マルクスによれば、貨幣恐慌すなわち金融恐慌が起きるのは、信用が大規模に破綻した結果ということになる。高度に発達した資本主義経済は、現金ではなく信用によって動いていると言ってよいほど、信用の果たす役割は大きい。その信用は、複雑に入り組んだ網の目のようなネットワークを形成しているので、そのうちのどの部分かに断裂が生じると、あっというまに全体の破綻につながるのである。

一旦信用が崩れると、現金への需要が圧倒的に高まる。信用が崩れた状況では、支払いの約束を実行する手段は、別の信用の付与ではなく、現金による支払しかない。そこですべての債務者は銀行に殺到する。その銀行には、そうした支払いにすべて答える能力はない。なぜなら、信用の規模は、現実の貨幣準備の何倍にも膨れ上がっているからである。銀行は、現実の貨幣を準備資金としながら、実際には、同じ貨幣片を何倍もの取引へと媒介させることで、信用を創出しているわけだ。今日の金融理論でも、民間銀行は、自己資金の数倍にのぼる貸し出しをしていることが認められている。経済状況がおかしくなって、人々が信用を相手にしなくなると、現ナマをもとめての取り付け騒ぎがおこるわけである。

貨幣恐慌の際に、現実の貨幣、つまり現金だけが頼りになり、手形などの信用貨幣が斥けられるのは、貨幣の本質に根差している。貨幣には色々な機能がある。購買手段、支払い手段、富の蓄蔵手段としての機能である。これらのすべての機能を果たせるのは、基本的には現金及び金属通貨だけである。それらは、富の一般的な定在として、資本主義的経済システムが続く限りは、絶大な信用を持ち続ける。一方、手形などの信用貨幣は、それの現ナマへの転換可能性に裏付けられている限りで、つまり絶対的に現ナマを代表している限りにおいて通用するに過ぎない。一旦貨幣恐慌が起きると、信用貨幣のそうした部分はなんの意味も持たなくなり、従って有効な貨幣とはみなされず、現ナマだけが、求められるようになる。







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