文字移植:多和田葉子を読む

| コメント(0)
において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、頭、見せ者にされて、である、攻撃の武器、あるいは、その先端、喉に刺さったまま、あるいは、

多和田葉子の短編小説「文字移植」は、こんな文字の配列からはじまる。ちょっと読んだだけでは、意味がつながらない。一つ一つの言葉には無論意味があるが、それが互いにつながって意味のある文章にならないのである。これだけでも読者にとってはストレスの種だが、これに続く文章もストレスの種だ。句点はあるが読点がない文章で、しかも一つの分節が結構長いので、読み進むのにそれなりの緊張を強いられる。冒頭の文章といい、それに続く本文と思われる文章といい、この小説は日本語の常識をかなり逸脱した書き方をしている。

小説の構成としては、冒頭の言葉群は、ある言語で書かれた文章を他の言語に翻訳したものということになっており、その翻訳の主体である小説の語り手が、その翻訳のプロセスを紹介しながら、自分の体験を語るという具合になっている。その語りの部分がこの小説のいわば本文であり、その本文の隙間に翻訳の文章がさしはさまれるという構成になっている。だから読者は、語り手の体験を追体験しながら、翻訳の文章を自分なりに構成するようにせまられる。この小説はだから、読者にとってはかなり緊張を強いられるのである。

語り手は、ある文章を翻訳する目的でカナリア諸島のある島にやってきたということになっている。カナリア諸島というのは、西サハラの西の海に浮かぶ島々でスペインの植民地らしい。気候がいいので、バナナ園とかサボテンの群が出てくる。空気は乾燥しているが、なぜか語り手は水浸しになることが多い。海が近いからだろう。語り手は海の近くで暮らしているのだ。そこで暮しながら文章の翻訳をしているのだが、なかなかはかどらない。締め切りに迫られてやっと書く気になる作家のように、この語り手も仕事の期限に迫られなければ完成させることができないのだ。完成すれば、原稿を封筒に入れて郵便局にあずければよい。自分の義務は、その期限までに原稿を郵便局にあずけることで、その先のことには責任がないのだ。

そこで、語り手がどんな文章を翻訳しているのか、それが問題になる。小説の本文では明示されていないが、小説外部の周辺的な情報によれば、アンネ・ドゥーデンという作家の「アルファベットの傷口」という短編小説だそうだ。これは、聖ゲオルクの大蛇退治をテーマにしたものらしい。だから、小説の中の翻訳の文章にも大蛇とか聖ゲオルクとかいった言葉が出てくる。だが、先ほども述べたように、翻訳の文章があまりにも特異で、なかなか意味のあるイメージに結びつかない。どうしてそんなことになるのか。

多和田はどうも、翻訳というものについて、格別な考えを持っていて、その考えをこの小説で実践してみせたということらしい。翻訳というものは、ある言語を別の言語に置き換えることだが、その二つの言語にシステム上の相違が大きい場合には、その調整をする必要が生じる。よく練れた翻訳というのは、もとの文章を翻訳先の言語のシステムにあわせて都合よく置き換えたものだ。それに比べて、もとの文章に忠実であろうとする直訳調の翻訳は、いわゆる棒訳となり、文章としては読みにくい。ところが、この語り手つまり多和田は、意図的に棒訳している。棒訳というわけは、言語のシステムを無視して、一語一語を文脈と関係なく、そのまま日本語に置き換えているからである。それ故、冒頭の文章からわかるように、翻訳された文章は単語の連続ということになり、全体として統一された文章になっていない。

なぜ、わざわざそんなことをしたのか。どうやら多和田は、言葉というものが持っている豊富なイメージをそのままむきだしの形で表現したいという意図を持っているように思える。言葉は文脈の中に組み入れられることで、意味を獲得するが、それは言葉が持っている多くのイメージの中から、ある一つだけを取り出して、ほかのイメージを切り捨てるということを意味する。それによって言葉は意味を持つが、言葉自体のイメージは貧しくなる。それはある種のジレンマだ。だが、人間の認識とは、直観を通じて意識の与件となったものを、知性の働きによって分節することで成り立っている。分節とは限定することを意味するから、その分、もとになる直観の内容は貧しくなる。その場合の直観に相当するものを言葉と考えれば、人間は言葉の意味を限定することで、意味のあるコミュニケーションが可能になるのだといえる。

だが、多和田は、論理的なコミュニケーションよりも、言葉自体が持っているイメージの豊かさのほうを重視して、わざわざ意味を解体するような表現をしているように思える。

以上は、言葉をめぐる多和田のこだわりを論じたものだが、文章の構成にも多和田らしい仕掛けが見られる。語り手は、あくまでも翻訳者であって、翻訳している文章の外部にいるはずだ。ところが、いつの間にか文章の書き手たる作家と一緒になったりしているうち、自分自身が文章の一部になってしまう。原作では、聖ゲオルクが大蛇を退治するのだが、その聖ゲオルクが語り手の前に現れるのだ。しかし語り手は聖ゲオルクによって退治される大蛇ではない。原作には聖ゲオルクが大蛇を退治するところを見る姫君が出てくるのだが、どうやら語り手はその姫君に自分を同一視しているらしい。原作での姫君がどうなったのか、小生にはわからぬが、この小説の中では、語り手は聖ゲオルクに追いつめられて海の中に逃げていかざるをえないハメになる。彼女は二十五メートル以上は泳げないのだ。

こんなわけで、この小説は、翻訳という作業について読者に考えるように仕向けながら、翻訳の世界と現実の世界の垣根を取り払うことで、現実とは何かについても考えさせるように出来ている。

最後に一言。この小説の文体は、「犬婿入り」の延長にあるものだろう。「犬婿入り」では、いらいらするほど息の長い文章で表現されていたが、一応句読点はあった。それがこの小説では、読点を省いて句点だけで論理構成をしている。その結果、読者は強い緊張を覚えながら、意識的に論理構成をしなければ、文章の意味を再構成できない。だからこの小説は、作者と読者との共同作業のうえに成り立つという宿命を自らに課しているといえよう。人騒がせな小説である。






コメントする

アーカイブ