絶対地代:資本論を読む

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リカードの地代論は、差額地代に限定されていて、絶対地代の概念は含んでいない。差額地代というのは、基準となる土地と比較しての、土地の収益の超過分を源泉とするのであるが、基準となる土地自体は地代を生まないと前提していた。マルクスはこれに異議を唱え、資本主義的生産関係においては、地代なしに土地が貸し出されることなどありえない、すべての土地は地代を要求する、と考える。リカードは、地代を生まない土地の例として、アメリカの未墾の土地をあげているが、それは極端な例であって、ヨーロッパのような伝統を背景にしたところでは成り立たないし、アメリカにおいてさえ、一時的で例外的なことだと言った。土地が地代をとらずに貸し出されることはないのである。

とはいえ、リカードの地代論が絶対地代の概念を含まないからといって、その説が無効になるわけではない。かれの差額地代論は、ある土地の豊度を基準地のそれと比較して、その相対的な関係から地代を導き出すのであって、基準地の価格が地代を含んでいようが、あるいは含んでいないであろうが、それらの相対的な関係にはたいした影響はないわけであるから、基準地が地代を含まないと前提しても、論理に破綻は起こらないとマルクスは考えた。じっさいマルクスは、絶対地代に先だって差額地代を論じるにあたり、絶対地代をとりあえず無視して議論しているのである。

そこで絶対地代に戻るが、すべての土地が絶対地代を要求するとして、その源泉はなにか。絶対地代は言ってみれば、土地についての利息のようなものだ。だから一般的な利息が剰余価値を源泉としているように、地代もとりあえずは剰余価値を源泉としていると考えられる。とりあえずと言うのは、地代はその他の産業分野における利子に比べて割高になる傾向があり、その割高の原因が農業の特殊性にあると考えられるからである。

農業部面は、工業部面等に比べて資本の有機的構成が低い。不変資本つまり労働力の割合が相対的に高いわけだ。したがって、産業全体の平均よりは、剰余価値の割合が高くなる。そのことが農業部面における剰余価値の高さと、したがって地代の高さを基礎づける、とマルクスは考えるのである。

この考えは、農業生産物価格が、基本的には、実際の生産価格と一致していることを前提している。農業生産物は、その実際の価値通りに売られても、平均より高い利潤を生むわけである。しかし、農業生産物の場合には、じっさいの生産価格より高く売られる場合がある。というより、だいたいが農産物はその生産費を超える高い価格で売られるのである。その理由はなにか。

それは、どんなに豊度の低い土地でも、地代なしでは土地所有者が土地を貸し出すことがないからである。もしも土地が地代を生まないのであれば、土地所有者はその土地を貸し出さずに遊ばせておくであろう。「借地農業者は地代さえ払わなければ自分の資本を通例の利潤で増殖できるという事情は、土地所有者にとっては、自分の土地を借地農業者にただで貸してこの取引相手にたいしては無償信用を開始するほど博愛的に振る舞うという理由にはけっしてならないのである」

したがって、土地所有者が借地農業者に土地を貸し出す気になるには、土地が地代を生むほどに、超過利潤が保障されていなければならない。その超過利潤は、一部は労働者の必要労働部分まで食い込むことから得られるが、大部分は、じっさいの生産価格(労賃を含む)を超えた高い価格で農産物が売られることから得られる。つまり、資本主義的農業においては、最劣等地でも地代を生むほどに、農産物とりわけ穀物価格は高くなるわけである。

この事態をマルクスは次のように表現している。「もし最劣等地Aが~その耕作は生産価格をあげるであろうにかかわらず~この生産価格を超える超過分すなわち地代を生むまで耕作されることができないとすれば、土地所有はこの価格上昇の創造的原因である。土地所有そのものが地代を生んだのである」

その地代をマルクスは、資本主義的生産の抱える矛盾の最たるものだと言いたいようである。利子生み資本にもそれなりの社会的役割はあるが、土地所有そのものにはなんらの役割なり意義などはない。歴史的な経緯を背景にして、偶然獲得した土地私有権をもとに、自分ではなにもしないにかからず、社会の生み出した富の大きな部分を要求する。いわば寄生虫として、土地所有者階級を見ているわけである。

寄生虫であるだけではない、土地所有は社会の発展にとっての障壁となっている、とマルクスは言う。「この障壁は未耕作または未賃貸の土地での新たな投資を関税の取り立てなしには許さないのである」。そう言ってマルクスは、土地所有が究極的には廃絶されることを主張したいようである。

以上の議論は、土地所有が土地の現実の耕作者すなわち借地農業者と切り離されている事態を前提にしたものである。マルクスは、当時のイギリスの農業を念頭において、典型的な資本主義経済においては、土地所有と借地農業とは切り離されると考えたわけだが、現実の歴史の動きを見ると、多くの国ではそういう事態が一般化したわけではなく、いわゆる小規模農地経営が根強く残っている。たとえば日本の場合には、小規模自作農と呼ばれる人々が農業の大部分を担っている。そういう人々においては、土地所有と農地経営とは一体化していて、マルクスのいうような意味での地代は普及していない。にもかかわらず、農産物の価格は、平均的な商品価格に比べて独自の運動を示しがちである。それは、一つには農業の特殊な性格にもとづき、もう一つは、たとえば食糧安保とか農地経営の安定性といった、別の政策意図によって左右される部分が大きい。なんといっても農業は、国の存立にかかわる部面だから、純粋に農業的なものを超えて、さまざまな思惑が交差するところなのである。







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