法華経を読むその二十四:妙音菩薩品

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薬王菩薩の前身たる一切衆生喜見菩薩は、現一切色身三昧という霊力を得ることができた。現一切色身三昧とは、相手に応じて姿を現し、相手に相応しい教えを与える霊力のことである。法華経の核心的な思想に方便というものがあるが、現一切色身三昧はその方便の具体的な現れであると言ってよい。「妙音菩薩品」第二十四は、現一切色身三昧の体現者としての妙音菩薩の業績について説く。同じような業績をあげた菩薩として、観音菩薩がある。妙音菩薩は三十四身に現じて衆生を救うのに対して観音菩薩は三十三身に現じて衆生を救う。また、妙音菩薩が東方浄土に住むのに対して、観音菩薩は西方浄土に住むとされる。この二人の菩薩は対照的なものとして捉えられているのである。

お経はまず、釈迦仏が肉髻より光明を放ち、眉間の白毫相より光を放って、東方の諸仏の世界を照らす所から始まる。法華経のこれ以前の章では、釈迦仏は弟子たちの問いかけに答える形でアクションを起こしていたのであるが、この章では自ら積極的に動くところがミソである。

東方世界の遥か彼方に、浄光荘厳という仏国土があり、そこに浄華宿王智如来という仏がいらした。また一人の菩薩がいて、名を妙音といった。この妙音菩薩は厳しい修業の結果、妙幢相三昧、法華三昧など十六種の三昧を得た。いづれも法華経の教えをしっかりと受けとめ、それと一体となれるような境地のことである。

釈迦仏の光に照らされて、妙音菩薩は浄華宿王智如来に向って、是非娑婆世界に赴いて釈迦仏にお会いしたいと願った。また文殊菩薩ほか多くの菩薩たちにも遇いたいと言った。それに対して浄華宿王智如来は、娑婆世界においては、仏も菩薩たちもみな小さいが、それは娑婆世界の住人が小さいことに合わせた方便なのであって、仏や菩薩が本来矮小なわけではない、それをよく理解して侮ることのないようにと諭した。この浄光荘厳の仏国土においては、仏も菩薩もみな巨人なのである。

浄華宿王智如来の言葉を受けた妙音如来は、身を動ぜずして三昧の境地に入った。するとその三昧の力によって、耆闍崛山の釈迦の法座のまわりが夥しい宝物によって飾られた。それを見た文殊菩薩は、これはどんな神力によるのかと釈迦仏に聞いたところ、これは妙音菩薩が現われる前兆だと答えた。そして多宝如来に向って、妙音菩薩を呼び出してほしいと頼んだ。多宝如来が妙音菩薩に呼びかけると、妙音菩薩は八万四千の菩薩たちを伴なって現れたのであった。

妙音菩薩は釈迦仏の足に頭をつけて礼拝した。そして浄華宿王智如来の伝言を披露しながら釈迦仏のご機嫌伺いをした。相手の足に                                                                                                                                                                                                                          頭をつけて礼拝するのは、仏教徒にとって最高の礼儀とされる。おそらくインドの風習に起源を有するのであろう。

釈迦仏の近くにいた華徳菩薩という菩薩が、妙音菩薩はどんな功徳によってこのような神力を得たのかと釈迦仏に聞いた。釈迦仏は妙音菩薩の神力の由来を語った。はるか昔、雲雷音王という仏がいて、その国土を現一切世間と言った。その国土において、妙音菩薩は一万二千年にわたり、十万種の伎楽をはじめさまざまに仏を供養したことで、その因縁によって浄華宿王智仏の世に生れて、神力を授けられた。

その力とは、身は一つでありながら、様々な姿に現じて、その姿に相応しい教えを以て衆生を導くことができるというものである。たとえば、梵王の身をあらわしたり、帝釈天となったり、自在天となったりする。その種類は三十四通りである。その三十四通りの姿から、相手に相応しい姿を現じて、相手に相応しい教えを与えるのである。

その三十四通りの変身の有様を、お経は詳しく説く。その一節は次のような調子である。「若し応に声聞の形を以て度うことを得べき者には、声聞の形を現じて為に法を説き、辟支仏の形を以て度うことを得べき者には、辟支仏の形を現じて為に法を説き、菩薩の形を以て度うことを得べき者には、菩薩の形を現じて為に法を説き、仏の形を以て度うことを得べき者には、即ち仏の形を現じて為に法を説く。かくの如く種々に度うべき所の者に随って為に形を現し、乃至、滅度を以て度うことを得べき者には、滅度を示し現わすなり」

この変身ともいうべき霊力を現一切色身三昧というのであるが、それは薬王菩薩の霊力と共通する。ともあれ、挨拶が終わったことに満足した妙音菩薩は、釈迦仏と多宝如来の塔を供養して、本土に還って行った。途中の諸国では、六種に振動し、宝の蓮をふらし、百千万の種々の伎楽が演奏されたのであった。

以上、このお経は、衆生を教えるには、相手に相応しい教え方が大事だということを説いたものと言える。相手に相応しいあり方を、具体的な姿としてイメージしたところが、このお経の大きな特徴である。お経というものは、このように、抽象的な言葉によって説得するというよりも、具体的なイメージを通じて心に働きかけるものなのである。







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