シュンペーターの社会主義論

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シュンペーターは、自分は社会主義者ではないと言っておきながら、社会主義は資本主義の内在的な傾向から必然的に生まれるものであり、したがって止めようのないものだと認識していた。その(後者の)点ではマルクスと同じである。違うのは、マルクスが社会主義への移行を革命のイメージで捉え、そこに暴力の介在を認めるのに対して、シュンペーターは革命などという大げさな事態なしでも、社会主義は平和的に実現される可能性が高いと考えていたことだ。

資本主義に馴染むあまり、社会主義を毛嫌いする人々は、革命だとか暴力に眉をひそめるとともに、社会主義の非能率を攻撃する。社会主義では、資源の配分がうまくいかないし、経済も停滞する。なぜなら資源の効果的な配分とか、適正な価格による正常な経済活動は、市場の存在を前提とするからだと彼らは言う。こうした考えに対しては、シュンペーターは、資本主義から社会主義への移行に、革命とか暴力とかはかならずしも必要ではないし、また資源の適正な配分や正常な経済活動は、資本主義より社会主義のほうがうまくいくといって、社会主義の利点を強調する。

そこで、シュンペーターが、社会主義をどう定義しているかが問題となる。定義がはっきりしていなければ、生産的な議論とはならないからだ。シュンペーターによる社会主義の定義とは、「生産手段に対する支配、または生産自体に対する支配が中央当局にゆだねられているような制度的類型」ということになる。ここで「中央当局」という表現をして、「国家」と言わないのは、シュンペーターが「国家」というものを特定の歴史的な概念だと考えているからである。国家とは封建勢力とブルジョアとの妥協の産物として生まれたもので、したがって資本主義社会に固有のものであって、歴史を超越した普遍的な形態ではないからだというわけである。

社会主義の反対は資本主義ということになるが、シュンペーターは資本主義という言葉を使わずに「商業社会」という言葉を使う。そしてそれを、「生産手段の私的所有と生産過程の私的契約による規制」を中核とした制度と定義する。そういう意味では、完全競争状態にある初期資本主義から独占が優位となった高度資本主義までをカバーしているわけだ。簡単にいえば、シュンペーターはこのように定義することで、資本主義が私的所有を基盤としているのに対して、社会主義は公的所有を基盤としていると考えるわけである。

そのように考えるわけは、資本主義に馴染んで社会主義を攻撃する人が、社会主義の対立概念として持ち出すのが初期の資本主義だと考えるからだ。そうした攻撃者の代表をシュンペーターはフォン・ミーゼスに見ているのだが、フォン・ミーゼスの理屈の核心は、経済を有効に動かすには競争的な市場が前提となるとする主張だ。経済を動かす枠組みは市場以外にはない。そうフォン・ミーゼスは言い、そのほかの攻撃論者も同じような理屈を主張するのであるが、それは架空の前提で議論するもので、きわめて欺瞞的だとシュンペーターは考える。資本主義が完全競争の上になりたっているというのは、資本主義のごく初期の段階のことであって、いまではそのような前提は崩れ去っている。いまは独占が優位の時代であって、そこでは不完全な競争が一般化しているのである。また完全競争自体も、歴史的に完全な状態で実現されたことはなく、市場というものは、そもそものはじめから不完全競争の部分を含んでいたというのがシュンペーターの見立てである。そのような架空といえるような事態を、社会主義の対抗概念として立てるわけにはいかない。社会主義の対抗概念は、あくまでも今日の成熟した資本主義なのである。それは大企業が有力になり、官僚主義的な経営と不完全競争が支配している世界である。その世界は、きわめて社会主義に近い。だから成熟した資本主義から社会主義への移行は、思ったほど困難なことではない。むしろ円滑に行われるはずだ、とシュンペーターは考えるのである。

資本主義においては、価格の決定とか経済活動の調整は市場を通じてなされるが、社会主義においては、中央当局によって計画的になされる。そのことについて資本主義に馴染んだ経済学者は、人間が合理的な計画能力に欠けていることを理由に否定的であるが、シュンペーターは楽天的である。かえって社会主義的計画経済のほうが、資源の有効配分や景気変動の緩和という点では優位であると考えている。とくに失業問題の解決については、社会主義のほうがずっと有利だと考えた。社会主義においては、景気変動を計画的にコントロールすることを通じて失業を最低限に抑えられるし、仮に産業構造の変換等によって失業が生まれても、すみやかにほかの分野で吸収することができる。資本主義では、そうしたプロセスは市場にゆだねられるので、無用な混乱とか無駄が生じやすいというのである。

ところで、高度の発展した資本主義は、独占とか寡占が優位な社会である。要するに巨大企業が経済の動向を大きく作用する社会である。巨大企業は、完全競争下の中小企業群とは全く違った行動をする。それを単純化して言えば、冒険精神が後退してあたりさわりのない経営が支配的になるということだ。そうした経営は、組織の存続を目的として、無理な冒険を避ける。経営者たちはかつてのような冒険心にとんだ企業家ではなく、雇われ社員である。そうした雇われ社員からなる官僚組織が巨大企業をコントロールする。それは利潤を極大化することよりも、企業の安定を優先させるだろう。そうしたあり方は、社会主義ときわめて似ているといえる。社会主義も、巨大な官僚組織が経済を動かす。シュンペーターは社会主義の内実を官僚制の支配だと考えたが、その点では高度資本主義と社会主義との間で本質的な相違はないのである。

だから、高度資本主義、それをシュンペーターは成熟した資本主義と呼んでいるが、その成熟した資本主義から社会主義への以降はかなりスムーズに行われるとかれは考えた。無論多少の調整は必要になろうが(たてば私的所有権の原則廃止などは憲法改正によって定めねばならない)、大きな困難をともなうとは考えられない。

問題は、未成熟な資本主義から社会主義への移行が、いわば力ずくで行われた場合である。シュンペーターの念頭にあるのはロシアの実験だったと思う。ロシアの社会主義化は、成熟した資本主義ではなく、未熟な資本主義、というよりは反封建的な土壌のうえで行われた。だから、マルクスやシュンペーターの考えた社会主義の実現とはかなり異なった道筋をとった。今日では、ソ連の社会主義が失敗したことを理由に、社会主義一般に対しての否定的な言説が支配的になっているが、マルクスやシュンペーターによれば、ロシアの社会主義は社会主義としての典型例ではなく、あくまでも例外的な現象だということになろう。

高度資本主義においても、伝統的な中小生産者が消えることはない。農民や中産階級と呼ばれるような人達だ。その人達をシュンペーターは、基本的に反社会主義勢力と捉えている。かれらは社会主義化に徹底して反抗するだろう。そうした人達をどう処遇するかが、社会主義化にあたっての最大の課題だとシュンペーターはいう。できれば、なるべくかれらの利害に配慮しながら、漸次的に社会化するのが望ましい。なにごとも急いては仕損ずる、そうシュンペーターは考えるのである。





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