狂言「柑子」

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「柑子」は、主人から預かった柑子を食ってしまった太郎冠者が、それを出せと言われて、出せないわけを言い訳する有様を描いたもの。同じようなテーマをとりあげた作品に「附子」があるが、「附子」の場合には主人にも責任の一端があるが、こちらは太郎冠者に全面的な責任がある。その責任を逃れようと、太郎冠者が無い知恵をしぼるところに妙味がある。

ここでは先日NHKが、「山姥」と抱き合わせにして放送した大蔵流の舞台を紹介したい。シテの太郎冠者は善竹十郎が演じていた。

舞台にアドの主が登場して、外出の最中太郎冠者に柑子をあずけたことを思い出し、太郎冠者を呼び出して、それを提出するように促す。それに対して太郎冠者は、すでに食ってしまった後なので、何とかその言い訳をするように努める。柑子とはミカンの仲間の柑橘類の実である。

太郎冠者いわく、その柑子は珍しく三成りであった。そこで、「世間に二つなりさえ稀でござるに、まして三つなりの柑子は珍しいと存じ、こう手に提げてお供いたいてござれば、一つほぞが抜けまして、門外さしてころりころりとこかまするによって、私の声をかけましてござる」。そういったところが、主人が「何と声をかけたぞ」と聞くから、太郎冠者は「ヤイヤイ、柑子門を出でずということがある。やるまいぞ、やるまいぞと申してござれば、さすが柑子も心がござって、木の葉を一葉盾につけ、きっとかきこまりましたによって、そのまま取りあげまして、さてさて憎い奴の、ほぞなどの抜くるということがあるかと申して、皮をまんまとむきすまし、筋までとって、ただ一口に致いてござる」と答える。

あきれた主人が、食ってしまったものは仕方がないと言って、残りを差し出すように言うと、太郎冠者はこれも食ってしまった後なので、次のような言い訳をする。「今度はほぞが抜けてはなるまいと存じ、おう、懐に入れてお供致いてござれば、何やら懐のうちが、ひいやりと致しましたによって、何事かと存じ、そっと手を入れてみましたれば、イヤ申し、大事なことがござった」。そう言うと主人が「何としたぞ」と聞くので、太郎冠者は次のように言い訳を続ける。「例の長柄の大鍔に押され、つぶれてまする」。主人が両手をうちあわせて、「南無三宝、して何とした」と畳みかけると、太郎邪冠者は「そのまま取り出しまして、さてさておのれはふがいないやうの、鍔などに押され、つぶるるとということがあるものかと申して、今度は腹も立ちまする、皮をむいでただ、一口にいたしました」

これも食ってしまったものは仕方がないと言って、残った三つ目を差し出せと主人が言うと、これもまた食ってしまった後なので、太郎冠者は苦しい言い訳をする。俊寛僧都が他の二人と共に鬼界が島に流されたことはよくご存じのとおり。この三人のうち、二人はご赦免あったが、俊寛僧都一人は取り残されたまま。「その如く三つなりし柑子も、一つはほぞ抜け、ひとつはつぶれ、一つは残る。人と柑子は変われども、思いは同じ涙かな」

こんな理屈にならぬ言い訳をしても、主人の納得は得られない。とにかく残った柑子を出せと言い張る。そこで太郎冠者は「六波羅へとうど納めました」と答える。六波羅のハラにかけて、自分の腹に収めたというわけである。

落語の落ちのような落とし方である。





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