みんなで死ねば怖くない:玉砕五輪とコロナ司令塔の笛吹たち

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菅首相がG7で東京五輪の開催を約束してしまったことで、いまや五輪ありきのモードに染まってしまった。一時は、五輪よりも国民の命を優先するとうそぶいていた菅首相も、いまでは五輪最優先で、五輪を成功させるために、国民はすべてを投げうって協力しなければならない、と言わんばかりの変節ぶりである。専門家の意見は何のその、国民の不安も蹴飛ばして、ひたすら五輪の開催に向ってひた走っている。しかも、一時は、やるにしても無観客だと言っていたものが、いつの間にか有観客になり、その規模も会場あたり数万人単位まで膨れ上がりそうだ。そんなことをすれば、コロナ感染が爆発し、大勢の国民が犠牲になるのは見に見えている。だがそれを、コロナ司令塔の最高指揮官である菅首相は見ようとしない。ハーメルンの笛吹き男よろしく、国民に死の行進を強いているようなものだ。菅首相がそうだから、大会組織委員会はいうに及ばず、政府の担当閣僚を含め、五輪マフィア全体が先頭にたって、イケイケドンドンの空気を醸し出している。そうした状況を評して、識者の中には「玉砕五輪」と言う者もあるし、中には「殺人五輪」と言う者もある始末だ。

日本人が、なんのかのと言っても、お上の意向に逆らわないのは、昔からの習い性なので、いまさら驚くべきことでもないが、しかし今回は、国民一人一人に命の危険が迫っている。それなのに、たいして騒がずに、むしろ菅首相の言いなりになっているのは、自分の運命を達観したからだろうか。この国では、どんな事情があろうと、お上の意向に逆らうことは許されない。たとえ自分が死んでもお上には好きなことをしてもらいたい。そんな殊勝な思いを国民一人一人が抱いているようである。国民は枕を並べて討ち死にすることに悦びを感じ、また最高指導者の菅首相は、そんな国民を誇りに思うということらしい。こういう国民を持った国家こそ、比類のない素晴らしい国家なのだ。そういう国家では、国民は、疑いを抱かず死に赴く。あかたも「みんなで死ねば怖くない」といった具合に。

じっさい、先の戦争でも大勢の兵士たちが死んだが、彼らは死ぬこと自体に不満を持ったわけではない。みんなが同じ条件に向き合い、平等に死んでいったからだろう。みんなで一緒に死ぬことには、ある種自分を納得させる迫力があるものだ。今回もそれと同じで、国民は、みなが平等に死ぬ限りにおいては、その死を無駄な死とは思わない。そういう体質が国民の間に根強くあるために、五輪開催への強力な反対の声はあがらず、なんとなく開かれてしまうというような仕儀にあいなるわけである。

こんな日本人の大量死を、世界の人はそんなに気にしないだろう。日本人が何人死のうと、世界の大勢にとっては影響ないし、日本人が世界のために、かつての特攻隊が米軍の前で自殺ショーを演じたように、壮大な自爆ショーを演じてくれれば、気の利いたエンタメとして消費するのがせきのやまであろう。日本の五輪マフィアのなかには、数万人の日本人が死んでも、それはさざ波のようなものだろうそぶいた者がいるそうだが、そういう奴は、自分だけは生き残ると考えているのだろう。菅首相もまた、そのように考えているに違いない。でなければ、危機を自分自身の危機として受け止め、こんなに無謀なことを国民に強いるようなことはしないはずだ。

 #みんなで死ねば怖くない #玉砕五輪 





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