時間と自由その二:ベルグソンを読む

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ベルグソンの著作「時間と自由」第三章は、自由についての議論である。自由はとりあえずは意思決定の自由という形をとるが、その自由をどう捉えるかは、自然や人間の精神活動についての考え方を背景にしている。ベルグソンはその考え方を、機械論と力動論とに分ける。機械論というのは、自然や人間の精神活動はある一定の法則によって支配されていると見るもので、したがって人間の意志には自由な決定の余地はないとみなしがちである。それに対して力動論は、自然や人間の精神活動には法則にしばられない部分があり、したがって自由な意思決定の余地が残されていると考える。しかしその力動論といえども、法則性を無視するわけではない。

ベルグソンの議論は、機械的決定論の批判を軸にして展開する。機械的決定論とは、ごく単純化していえば、自然界や心理的世界は一定の法則、具体的には因果関係によって支配されており、ある一定の原因が与えられれば、それに対応する一定の結果が必然的に生じると考えるものである。これは科学の法則性をモデルにした考えで、すべての現象を関数関係の例として見るものである。この考えでは、原因となる現象は無限に繰り返される。それに対応する形で、結果が与えられる。この関係はどんな場合でも成立する。自然現象や精神現象は、理念的には、唯一絶対のものではなく、代替可能な雛形のようなものに収まるのだ。

こうした考えを人間の自由の問題に当てはめると、次の二つの議論になるとベルグソンはいう。一つは、ある先行観念とそれに引き続く観念との間には一定の因果関係がある。したがってある観念が与えられれば必然的にそれに対応する観念の発生を予見できる、とするものである。これは、人間には自由な決定の余地はないとする見方であるといえる。それに対してもう一つのほうは、人間の決定に自由の余地を認めるもので、それは予見できる結果を前にして、それについて選択の余地を認めるものである。この立場を代表するものとしてベルグソンはジョン・スチュアート・ミルを取り上げる。ミルは、「自由意志の意識をもつことは、選択してしまう前に、別様に選択することもできたという意識を持つことを意味する」と言った。しかしその選択は、予想されるいくつかの選択肢のうちから、ある特定のものを選ぶということではなく、せいぜい、受け入れるか受け入れないかという、オール・オア・ナッシング的なものに止まる。というのも、ミルもやはり、因果関係の強固さを容認しており、ある一定の観念とそれに対応する他の観念との間に、排他的な結びつきを認めているからである。

このように因果関係をもとに人間の意思決定を議論する立場は、機械的決定論といわれる。機械的決定論の特徴は、自然は無論人間の観念も、いく度も繰り返され、そのたびに常に同じ観念を生み出すと考えることだ。人間の精神活動というものは、自然と同じく反復可能なものなのだ。しかしベルグソンはそうは考えない。人間の精神活動は、様々な観念が相互に代替可能な同じようなものとして現われるようなものではない。人間が抱く観念は、そのつど全く新しいものであって、全く同じ観念が繰り返し現われるということはありえない。従って、ある観念が与えられれば、それに対応する観念が必然的に生じるということはない。つまり人間の精神活動には、機械的決定論者が前提するような法則性はないのである。だから、決定論者たちのように、人間の意志に自由を認めない議論とか、あるいは自由を認めても、せいぜい結果を受け入れるか受け入れないかの選択に帰するような議論はナンセンスだということになる。

では、ベルグソンは人間の自由をどのように考えるのか。ベルグソンは人間の意識活動を、決定論者のように、さまざまな現象の舞台となるようなものとは考えない。観念連合説は機械的決定論者が好むものだが、それは人間の意識をさまざまな観念の寄せ集めと見る。しかもその様々な観念が一定の法則によって結びつくとする。しかし人間の意識とはそんなものではない。それは観念の寄せ集めではなく、人間の心が全体として反映されたものだ。その心は人間の根底的な自我そのものである。そう前提したうえでベルグソンは、「自由な決断は心全体から出てくる。だから、行為は、それが結びつく動的系列が根底的自我と同化する傾向を増せば増すほど、それだけいっそう自由なものとなるであろう」と言うのである。

つまり自由とは、様々な選択肢の間からある一定の選択をする自由などではなく、人間が自分の根底的な自我と一体となることにおいて成立する。「要するに、私たちの行為が私たちの人格全体から出てくるとき、行為が全人格を表現するとき、行為が作品と芸術家とのあいだに時おり見られるような定義しがたい類似性を全人格との間にもつとき、私たちは自由である」というのである。

ここでベルグソンが、根底的自我とか全人格的とか言っていることは、かれ独特の人間観を反映している。ベルグソンは、デカルトやカントに代表されるような西洋哲学の伝統的な人間観を鋭く批判した。西洋の伝統的な人間観は、人間をその意識の表層において捉えるものだ。人間は意識の表層部分で自然界に接し、それに反省を加えて、対象を分節し、それによって概念的な把握をする。そういうあり方には十分な理由があるわけで、それ自体を非難するのは馬鹿げてはいる。しかしそれのみを以て人間全体と見なすことは間違っている。人間は意識の表層のみで生きているわけではない。無意識な部分を含めた精神活動全体が人間の自我を構成する。根底的自我と呼ばれるのは、無意識の部分を含めた人間の精神活動全体をさしていうものだ。その全体の中では、意識の表層的な部分より、無意識の深層部分のほうが重大な役割を果たしている。芸術、とくにすぐれた芸術には、そうした深層部分が強く働いている。

このようなベルグソンの人間観は、西洋哲学の伝統とはかけ離れたものを感じさせる。じっさい、西洋哲学は明晰な意識を土台にしてきた。明晰な意識とは、意識の表層部分にほかならない。そのようなものとして西洋哲学は、無意識を含めた意識の深層部分を無視してきた。ところがベルグソンは、そういったもののほうこそ、人間の精神活動を根底で支えていると考えるわけである。そのような考えが、ユダヤ教の神秘主義にも見られる。ユダヤ教の神秘主義は、人間の意識を表層の部分及び深層の無意識部分とが重層的に折り重なったものとしてイメージした。基本は無意識な深層部分であって、その内容が表層に浮かび上がることで、普通の意識活動が現われると考えるのである。無意識を重視するのは、フロイトの精神分析にも見られるが、フロイトもやはり、明言はしていないけれども、同じユダヤ人として、ユダヤ教神秘主義の人間観を共有していた可能性はある。

ともあれ、以上の議論を踏まえて、結論が導きだされる。結論とは、まずこの著作の目的が強さ、持続、意思的決定を論じることであったと確認したうえで、それらがいずれも人間の精神活動の本質的な要素であり、したがってそれらを純化することが大事なのだと主張する。じっさいにはそれらの観念は、常識的な見方によって汚染されており、我々の人間観を著しくゆがめているというのが、ベルグソンの根本的な主張なのである。

そのうえでベルグソンは、人間の精神の本質的なあり方は純粋な持続であるとする。それは純粋な持続として、空間としての対象世界と対峙する。それが本来のあり方だが、じっさいには、我々はその持続を空間と同化した時間に転化することで、人間の本来的なあり方を逸脱している、と考えるわけである。その純粋な持続を、ベルグソンは次のように定義する。「私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である。有機的発展であるが、増大する量ではない。純粋な異質性であるが、そのなかにははっきり区別された質というものはない。要するに、内的持続の諸瞬間は相互に外在的ではないのである・・・持続は、このようにその本来の純粋さに立ち戻ると、まったく質的な多様性、相互に溶け合うようになる諸要素の絶対的異質性として現われてくるだろう」

このような絶対的異質性の前では、必然的決定という観念はあらゆる意味を失い、したがって人間のなす決定は、それが絶対的異質性に合致しているかぎり、自由なのである。





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