中国の改革解放と日本のバブル景気

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中国が改革解放に向けて舵を切り替えるのは、1978年12月の中国共産党第十一期三中全会がきっかけだったと言われる。たしかにこの会議で鄧小平のイニシャティヴが確立され、改革解放への方向が基本的に定まったとはいえるが、すぐにその政策が実行されたわけではなかった。共産党の指導部には華国鋒が大きな勢力を誇っており、華国鋒自身は毛沢東の忠実な後継者として、社会主義建設への強固な意志を持っていた。ところが社会主義建設路線と経済開放とはとかく愛想が悪い。本当に経済の開放を進めるには、社会主義への頑固なこだわりを捨てねばならない。そんなことから、改革開放路線派にとって華国鋒は当面の障害になった。改革開放路線が本格的に始動するのは、鄧小平が華国鋒の追い落としに成功して以後のことである。

華国鋒とその一派の追い落としは割合短い期間で成功した。1980年8月に開かれた全人代の会議で華国鋒は国務院総理を解任され、失脚した。華国鋒にかわって鄧小平は趙紫陽を国務院総理の地位につけ、また胡耀邦を党主席に据えてみずからは軍事委員会主席に収まった。鄧小平は若い頃から人民解放軍に強力な足場を持っており、それがかれの権力基盤を支えてきたという面があった。その軍を配下に置くことで、鄧小平は実質的には中国最高の指導者となりえた。その鄧小平を中心にして、胡耀邦と趙紫陽が支える体制を「鄧胡趙トロイカ体制」と呼ぶ。このトロイカが以後中国の改革開放路線を本格的に推進していくのである。

1982年9月の中国共産党第十二回全国大会は、改革解放に向けての体制作りの総仕上げとなった。ここで胡耀邦が政治報告を行い、その中で近代化を進め、20世紀末までに工農業生産物の四倍増と人民の生活状態の小康化を実現すると宣言した。小康とは、ほどほどの暮らしぶりという意味である。

改革解放路線の指導理念として鄧小平らが持ち出したのは「四つの近代化」であった。これは農業、工業、国防、化学技術各分野での近代化を図り、中国を強力な近代国家に作り上げることを目的としたもので、周恩来や鄧小平が文革時代から唱えていたものだったが、いまや正式に中国共産党の指導理念となったわけである。留意すべきは、この近代化に政治の近代化が含まれてないことである。鄧小平にとって、社会主義・共産主義建設はすべての政策の最重要前提であり、その実現こそが政治の近代化であった。つまり改革解放による国家の近代化と社会主義建設は両立するものと考えていたわけである。したがってこの両者を対立関係におき、改革解放を進めるあまり政治の改革まで追求しようとする動きは、厳しく排除されねばならなかった。したがって胡耀邦が政治改革の動きに同調したときにはかれを容赦なく排除したし、その胡耀邦の死をきっかけに始まった民主化の動きに対しては、天安門前の血の弾圧で応えたのである。

ともあれ、ここで鄧小平が主導した改革開放路線の内容について見ておこう。まず農業分野について。農業分野では、農民の生産意欲を高める目的で、生産請負制を導入した。当初はこの生産請負制が集団農業と両立するという位置づけだったが、その後、集団農業の不生産性が確認され、1982年の11月には人民公社の解体が決定された。これによって農業部門では、自営農業が普及することになった。そのことで、農業生産は一時的に増加したが、やがて限界に直面する。生産意欲の高まりだけでは、増産には限度があるのである。

工業部門では、経済特区や経済技術開発区が設定され、そこを拠点として外資を積極的に導入する政策がとられた。すなわち、1979年7月以降、深圳、珠海、汕頭、廈門の四都市が順次経済特別区に指定され、そこに外資との合弁企業や外国単独企業を多く誘致した。そのため必要なインフラ整備や税制面などの優遇措置がとられ、急速に成長していったことは周知のことである。

また、1984年には、経済特区に続いて、大連など14の沿岸都市が対外経済開放都市に認定され、経済成長のためのさまざまな優遇措置が取られた。以上の政策が功を奏して、沿岸部を中心にして急速な経済成長をとげる地域が出た一方、内陸部は成長にあずかれず、地域による格差や人々の貧富の格差が拡大した。それを鄧小平は容認した。かれは筋金入りの共産党員ではあったが、平等よりも開発・成長を重視した。かれの言葉に、「黒い猫でも白い猫でも鼠をとる猫はよい猫だ」という言葉があるが、それはかれの開発至上主義を物語っている。かれの思想は先富論といって、一部の者が豊かになることで、国民全体を引っ張っていくべきだというものである。

鄧小平が主導した改革開放路線の特徴は、分権化という言葉であらわされる。従来の中国は国レベルで全体の経済政策を決めるというものであって、極めて中央集権的だった。ソ連型の計画経済をみならったためである。ところが改革開放政策では、農業、工業いずれの分野でも、地方や企業に大幅な決定権が認められた。そんなことから改革解放は、集中から分権への転換という側面を指摘できる。その分権をバネにして、中国経済は力強い成長をとげていくのである。

中国のこうした成長路線にもっとも深く関ったのが日本の企業だった。日本と中国との間の1972年の歴史的な接近以降、日本企業は積極的な中国進出をするようになり、1978年の平和条約締結以降はその流れが加速した。一時期、1980年頃に、主として中国の財政危機のために日中合弁が中断することもあったが、大きな流れとしては、日本企業の中国進出が続いた。日本の対中国投資は、1980年代後半に絶頂に達する日本の好景気にもかかわりがある。この好景気は後にバブル景気とも呼ばれ、有り余った金がいたるところで投機の動きをもたらした。日本企業がアメリカの資産を買いあさったのはその一例だが、莫大な金は中国への投資という形でも流れたわけである。

改革開放が進むにつれ、それに伴う矛盾が拡大していった。企業や農村に経営上の自主性を認めたことは、市場経済化への圧力となり、それをもとに二重価格制が生じる事態も起きた。また、経済部面での自由化は、政治上の自由化を求める声を強めた。共産党の指導部は、そうした動きを行き過ぎと考え、危機感を覚えるようになる。その危機感が、胡耀邦の排除と1989年の天安門事件をもたらしたといえる。






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