鄧小平時代の終わりと日本の長期低迷時代の始まり:近現代の日中関係

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1989年6月の天安門事件は、中国の改革開放政策の影響と、ソ連・東欧における民主化の動きとが相乗的に作用して起きたものだった。後に鄧小平がこの事件を回想して次のように言っているとおりだ。「この風波は国際的な大気候(和平演変、社会主義体制の平和的転覆)と国内的な小気候(ブルジョワ民主化)によってもたらされ・・・党と社会主義を転覆させ、完全に西側に隷属したブルジョワ共和国を実現しようとしたものであり、遅かれ早かれやって来るものだった」(天児慧「中華人民共和国史」から引用)

直接のきっかけは、この年の4月に胡耀邦が死んだことだった。胡耀邦は改革解放と民主化の象徴として失脚後も人気が衰えなかった。その彼の死を悼む学生たちが集会を開き、かれの名誉回復と一層の民主化を求め、やがて大規模な政権批判へと発展していった。そうしたかれらの運動を、趙紫陽は動乱ではなく「愛国的な民主運動」だと賞賛した。これに危機感を覚えた鄧小平たちは、運動への弾圧姿勢を強めた。そうした流れの中で、天安門前における血の弾圧事件が発生したのである。事件の全容はいまだに明らかではないが、数千人の死傷者を出したという推定もある。

事件は国際社会の強烈な非難を巻き起こした。西側諸国は中国に対して経済制裁を決定した。日本は当初、中国に対して強く臨み、その結果中国を孤立させるべきではないと主張したが、結局は同調して対中円借款の停止などに踏み切った。日本が中国に対して融和的な態度をとったことには、日本の対中経済協力の進展があった。日本は対中接近以来中国に巨額の投資をしており、その規模は対中外国投資の半分以上にのぼっていた。それが対中経済制裁によって失速することを、日本の経済界は望まなかったのである。

天安門事件による西側の経済政策は中国経済に大きな打撃を与えた。経済の停滞によってインフレが解消されたくらいである。鄧小平や、天安門事件直後に趙紫陽にかわって党の最高指導者になった江沢民は、なんとか経済を成長軌道に乗せるよう腐心した。かれらが選んだのは、再び改革開放路線に乗り、外資を積極的に招き寄せるというものだった。党内の保守派には、改革解放は社会主義の基盤を切り崩すという批判もあったが、経済を成長させない限り、中国の近代化はありえないという鄧小平らの意見が制した。

転機となったのは、鄧小平のいわゆる「南巡講話」だった。1992年の1月から2月にかけて、鄧小平は老体に鞭打ち、深圳、広州など南部の都市を訪問し、改革解放を加速させようと檄をとばした。その中で鄧小平は、資本主義にも計画があるように、社会主義に市場があってもおかしくないといって、いわゆる「社会主義市場経済」の概念を打ち出した。この概念は今日にいたるまで、中国共産党の経済政策の大黒柱となっている。

経済政策では改革解放を追及する一方、外交面では「韜光養晦」といわれる慎重路線をとった。当面は国として経済発展に専念し、外交面ではなるべく目立たないという政策である。もっとも、南シナ海での島嶼をめぐる領有権の争いなど、小競り合いは絶えなかった。中国は、アメリカには下手に出ながら、周辺の国々には高圧的に振る舞う傾向が強かったのである。

ともあれ中国の経済発展は、再び急速な成長軌道に乗った。1980年代にもかなり高い成長率(年平均9.4パーセント)を記録していたが、90年代には年平均10パーセント前後の成長率を記録した。そうした動きを横目にして、アメリカを始め西側諸国には次第に中国脅威論が高まるようになる。日本においても、1992年に中国が尖閣諸島の領有権を公式に主張し始めたことから、対中警戒論が持ち上がってくる。

1992年には天皇の中国訪問が実現したりして、日中関係は緊密化する方向に向かうべく期待されもしたのだが、実際には反目へと向かっていった。尖閣問題はその大きな要因の一つだが、それ以外にも色々な事情が働いた。まず、新たな指導者になった江沢民は、鄧小平のようには日本を重視しなかった。それどころか日本を批判的に見ていた。中国では1992年から愛国教育が実行されていくが、それは日本の侵略を厳しく批判し、国民に対して日本への反感を煽ることにつながった。その反感は21世紀に入ってから、大規模な反日暴動として爆発することにつながる。

日本への反感の高まりは、中国の指導者への批判に転化しかねなかった。中国の民衆は、日中国交回復の一連の流れに主体的な参加意識を持つことがなかった。日中国交は、毛沢東や周恩来など、一部の指導者の独断で進められたものであり、中国民衆は一切意見を聞かれることがなかった。そうした鬱屈感があって、中国民衆の対日意識はなかなか好くはならなかったし、日本に対して過剰な譲歩をした指導者への批判意識を高めた。そうした不幸な事情があるために、日中関係は、国民レベルまで融和的なものにはなかなかなれないでいる。1992年以降の愛国教育の内容をみると、南京大虐殺、石井細菌部隊、三光作戦、従軍慰安婦、徴用工問題などがセンセーショナルに教えられ、中国の若者に日本への強い拒否感を育むようなものだったと指摘できるのである。

1997年には鄧小平が死んだが、鄧小平が敷いた改革開放路線は基本的に受け継がれた。もっともそれは、経済政策の分野でのことで、外交や国内政治のレベルでは、社会主義路線の堅持がいっそう大きな目的とされた。また、鄧小平がかかげた韜光養晦から、次第に中国の国益を強調するように変化していく。国力の増大が国民の国家意識を高め、それが対外的な関係での国益へのこだわりへと変化していくことは、ある意味自然なことである。

1980年代後半にいわゆるバブル景気の絶頂を迎えていた日本経済は、1990年代に入ると一転して停滞する。この停滞は以後長期間続き、「失われた十年」という言葉を生むが、それでも収まらず「失われた二十年」とか「失われた三十年」とかいった具合に、ほぼ永続的な停滞が日本を苦しめることになる。日本経済の停滞は、以前のような大規模な経済援助の終わりを意味していたが、しかし日本経済にとっての中国への依存度を高めることにもなった。日本はあいかわらず自力での成長ドライブに欠け、輸出に依存する体質から抜け出せないでいた。その輸出先として、中国はアメリカにかわって最大のパートナーに浮かび上がったのである。日本の経済が停滞程度の生ぬるい状態ですみ、恐慌まで至らないのは、中国の賜物だったと指摘できるほどである。





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