江沢民と小泉純一郎、日中対立の本格化:近現代の日中関係

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鄧小平のあとをついだ形で中国の指導者になった江沢民は、日本に対して強い批判意識をもっていた。その批判意識が日本国民の前に強く示されたのは、1998年に国賓として日本を訪問したときだった。かれを主賓に迎えた宮中晩餐会の様子はテレビ放映されたのであるが、その場でかれは、子どもに説教するような調子で日本人への説教を繰り返したのであった。それを見た日本人は、これまで何度も謝罪してきたにもかかわらず、宮中晩餐会のような厳かな場で、なおも謝罪を要求する中国指導者に辟易させられたものである。

江沢民は、共同宣言の中で日本側が中国へのお詫びの言葉を盛り込むように求めた。かれの直前に日本を訪れた韓国の金大中に対して、日本は文書でお詫びの言葉を示していた。江沢民は同じことを要求したのである。だが、小渕首相は、お詫びの気持を言葉で触れるだけで、文章にすることは拒否した。あまりに卑屈だと日本国民に受け取られるのを考慮したからだ。ともあれこの事態は、日中間のわだかまりがなまなかなものでないことを炙り出した。

江沢民の日本批判は、1992年頃から強まっていた。その年から始まった新たな歴史教育を通じて、子どもたちに日本が過去に中国に対して行った残虐行為の数々を教え、日本への反感を煽り立てたのである。この教育で反日意識を持たされた子どもたちが、後に大規模な反日暴動を起すことになるわけである。

こんな具合に日中間は対立の様相を呈し始めるのだが、関係が一気に変ったというわけではない。日本企業の中国進出はあいかわらず盛んであったし、また日本政府も中国経済の国際進出を後押しする立場から、中国のWTO加盟に協力した。WTO加盟は中国経済の国際化を推進することになる。中国にとって経済の国際化とは、資本主義化を意味したわけだが、中国はそれを社会主義市場経済という概念によって推進した。いずれにしても、経済の国際化は、国有企業改革をはじめ、従来の社会主義経済システムに大きな転換をもたらした。それまでの改革解放政策は、もっぱら外資の導入に絞られていたのであるが、今後は国有企業の民営化や土地取引の自由化など、本格的な構造改革が迫られたのである。ともあれWTOへの加盟は、中国経済を一層拡大する方向に作用したといえる。その結果中国は、2010年には日本を抜いて世界第二の経済大国に躍り出ることになるのである。

小泉純一郎が(2001年に)日本の首相になったことで、日中関係は本格的に悪化した。小泉は、中曽根康弘がはじめて靖国神社を訪問して以来中断されていた現役首相による靖国参拝を復活したいと考えていた。だが中国側の反発を予想して、事前に根回しすることを忘れなかった。その結果8月15日では困るが13日ならかまわないとの内諾を得て、その日に参拝した。ところが中国側は猛反発した。理由はA級戦犯に敬意を表したというものだった。だが、日本側との決定的な対立は避けた。小泉の訪日を拒まなかったのはその現われである。

小泉は翌年以降も靖国参拝を続けた。その姿勢は大多数の日本国民からは支持されたが、中国は強烈に反発した。小泉の靖国参拝は、日本の軍国主義者たちへの表敬であり、日本国民が歴史と向き合おうとしないことを象徴していると受けとられたのである。かくして小泉政権の時代に、日中関係は、少なくとも政治のレベルでは、最低のレベルまで落ち込んだのである。

中国側の指導者が江沢民から胡錦涛に代ると、日本との関係改善の意欲が見られるようにもなるが、蜜月に戻るというわけにはいかなかった。日本は国連常任理事国になることを最大の外交テーマとし、それに向けて着々と手を打ってきたのだったが、中国はそれを阻止した。中国には、国連常任理事国として、日本の常任理事国入りに拒否権を行使する権限があったのである。だが露骨に阻止すれば国際社会から非難を浴びることを恐れ、ほかのアジア諸国を抱き込んだほか、国内の反日感情を煽り、対日姿勢に理屈上の根拠をつけようとした。その結果起きたのが、2005年の大規模な反日暴動であった。

この反日暴動は、中国全土の38都市で起きたとされる。デモ隊は暴徒化し、日系商店や日本車が破壊された。デモ隊は日本大使館にも押し寄せ、駐中国大使が生命の危険を感じたほどであった。それに対して中国政府は、デモ隊を取り締まるどころか、学生たちをバスで北京に送り込むなど、反日暴動を煽るような行動をとった。まさに官民あげての反日暴動といってよかった。しかし日本の国連常任理事国入りが実現されないとわかった時点で、反日暴動はおさまったのである。

日本政府はそんな中国のやり方に大いに憤りを覚えた。国交回復後中国の復興に力を貸し、また2001年のWTO加盟に際しては多大な助力を与えてやったにもかかわらず、その恩義を忘れて、官民が一体となって反日暴動を起こし、あまつさえ日本の国連常任理事国入りを妨害するのは許せないと感じたのだ。

小泉は中国側の対日圧力に屈することはなかった。かれは意図的に中国を徴発しているつもりはなく、靖国に参拝するのは、国のために命を落とした人々に敬意を表するためだと言った。そうは言っても、小泉のそうした言動が、日中関係を極度に悪化させた原因であることには間違いはなかった。

小泉以後、日本の首相はめまぐるしく変わったが、どの首相も在任中に靖国に参拝することを避けた。そのことで日中間に無用の波風をたてることを避けたのである。小泉の直後に首相になった安倍晋三は、従来の慣行を破って、最初の訪問国に中国を選んだほどだった。そうした姿勢を中国側に示すことで、冷え切った日中関係を正常化したいと考えたのであろう。

日中対立の変化の背景には、中国の経済力が飛躍的に伸びた事情がある。中国の成長力はすさまじく、長期停滞に陥った日本を尻目に、毎年高い成長率を記録した。その結果、先述したように、2010年には日本を抜いて世界第二の経済大国になるわけだが、それに伴って中国人の間に高まった大国意識が、日本への対抗意識を育んだと指摘できよう。以後2021年の今日にいたるまで、日中関係は漂流しつづけるのである。





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