ベルグソンの笑い

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笑いについてのベルグソンの説は、かれの主要思想である純粋持続とどのような関係にあるのか。ベルグソンは笑いを、基本的には社会的なものだと定義する。人間というものは社会的な生き物だから、他の人間を無視しては生きられない。社会は個人に対して一定の態度を求める。それは明確な規範という形をとることもあれば、暗黙の期待という形をとることもある。どちらにしても個人はそうした社会の要請に応えなければならない。だから個人がその要請に反したことをすると、社会は何らかの形で制裁を加える。笑いはそうした制裁の洗練されたものだ、というのが笑いについてのベルグソンの定義である。

一方、純粋持続の方は、個人の意識についての説である。そうしたものとして社会とは対立する関係にある。純粋に個人的な意識は、純粋持続としての時間の中で展開する。意識にとっての直接与件としての知覚は、とりあえずは分節されておらず、渾沌とした全体としてあらわれる。それに分節を加えることで、対象は明確な輪郭を持ったものとなる。またある対象は、他のものと比較されることで概念的な知にもたらされる。概念的な知は言葉によって表現されるが、言葉とは人間の社会的な性格の根拠となるものである。だから、人間の概念的な認識作用は、人間の社会的な性格に根ざしているといえる。

以上からいえることは次の通りである。人間の意識の本質は純粋持続ということにあるが、それは本来きわめて個人的なものであった。ところが笑いとは、きわめて社会的なものである。それは個人的であろうとする人間を社会につなぎとめる役割を果たす。そういう意味では笑いとは、人間の概念的な認識作用と似通った性質をもっている。概念的な認識は、言葉を通じて、人間を社会につなぎとめるものであるが、笑いのほうも、社会から逸脱している人間を社会につなぎとめる役割を果たす。

ベルグソンによれば、笑いの原因となるのは、おかしみと呼ばれる現象である。おかしみのもととなるのは、行動や身振りにおける機械的なこわばりとか、放心を思わせるような自動現象とかいったものである。それらをよくよく分析してみると、ある人間の行動なり身振りなりが、自然と思われる流れから逸脱して、あらぬ方向へと脱線していくことだとわかる。ところが人間は、社会の構成員である他の人間に対して一定の期待をしているものである。こういう場合にはこういう行動がおきるはずだ、その流れの先にはそれにふさわしい帰結が待っているはずだ。そういった期待を暗黙のうちに誰もが持っている。ところがその期待が破られる。いままでまっすぐ歩き続けていたのだから、今後もその流れの上で歩き続けるだろうと思っているところ、突然ずっこけて倒れる。それは予期していないことなので、見ているものは驚く。その驚きがおかしみとなり、それが笑いを呼び起こす。ベルグソンの笑いについての説を単純化すると、そういうことになる。

要するに、社会がある人間に期待していることと全く異なった事態が起きたときに笑いは起きる。笑うことによって、社会の期待に反したという自覚を持たせ、その期待に応えさせようというのが笑いのそもそもの存在理由である。

そういうわけであるから、笑いは社会的な起源を持つ。また、笑いは理知的な性格を持っている。笑いは、ベルグソンによれば、感情とは異なり、知性によってひきおこされる。どんな笑いも、知的なものである。それは、社会から逸脱しているものを、社会に連れ戻す役割を果たすのであるから、その逸脱についての知的な認知に加え、社会規範の強要という性格を持っているわけであり、その点でも知的であらざるをえない。

ベルグソンの思想は、人間本来のあり方として純粋持続を持ち出しながら、実際のあり方はきわめて社会的な制約を帯びていることを明らかにし、本来性と現実態との対立を云々するというものである。笑いについての説も、その対立の一環をなすものである。人間は本来感情的な存在であるが、社会生活上の要請が知性の発達をうながした。知性とはなによりも、社会生活をスムーズにさせるための仕掛けなのである。知性に社会的な根拠があるように、笑いにも社会的根拠がある、とベルグソンはいうわけである。

こうしたベルグソンの説には、それなりの意義を認めねばならぬが、しかしそれだけで笑いの全てが説明できるだろうか、疑問である。ベルグソンは笑いを知的なものとして定義し、感情のかかわる余地を認めない。ベルグソンによれば感情は、知性とは別のものであり、したがって笑いとはかかわりがないということになる。

しかし、笑いのなかには感情と深いかかわりがあるものが指摘できる。喜びは明らかに感情の一種であるが、その喜びは笑いと深いかかわりがある。幼児が笑う場面を想像してみてほしい。ベルグソンがいうような知的な笑いを幼児が見せる場合もあるだろう。だがそれのみではない。喜びの感情に伴う笑いも観察される。むしろその場合のほうが多いのではないか。大人の中にも、強い喜びの感情が笑いに結びつくことがある。なにかうれしいことがあると、人は自然と頬を緩めるものなのだ。そうした感情と結びついた笑いを、ベルグソンは全く度外視している。そうした点でベルグソンの笑いについての説は片手落ちというべきなのだが、ベルグソンはわざわざその片手落ちに自分を陥らせているように見える。

先述したように、ベルグソンの思想の特徴は、純粋持続としての人間の本来のあり方と、社会生活をする必要から生まれた高度な知性との対立という図式を用いて、あらゆる事柄を説明しようとすることにある。笑いをこの対立図式に当てはめようとすれば、笑いを高度に知的なものとして設定することが好都合なのである。一方芸術の方は、きわめて感情的なものとして、人間本来のあり方を表現しているということになり、ここに芸術と笑いの対立というベルグソン的な図式がもう一組できるわけである。








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