グラムシの今日的意義

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今日ではグラムシは忘れられた思想家として扱われている、と先に述べた。このまま再び取り上げられることなく、忘却の闇の中へと消え去ってしまうのであろうか。それとも復活するチャンスはあるのか。もしグラムシに復活するチャンスがあるとすれば、それは二つの条件を満たす場合である。一つはグラムシが絶対的なものとして設定した社会主義の実現が現実味を帯びて迫って来ること、もう一つはその社会主義の実現主体として労働者階級が役割を果たす覚悟を決めることである。この二つの条件がともどもに前景化して人々の意識を捉えるようになったとき、グラムシの思想は再び脚光を浴びることになるであろう。

20世紀の末に、ソ連型といわれる実在の社会主義体制が崩壊したことを受けて、社会主義一般が破綻したという言説が横行した。社会主義が持続可能なモデルとしての意義を失ったからには、資本主義だけが唯一意味のある社会システムであって、多少の欠陥があるからといっても、それを前提に生きていくのが人類に残された道である、というような議論が幅を利かせたものだ。そういう議論は、たとえば2008年の大規模金融恐慌といった現象も、資本主義の一時的な逸脱であって、基本的には資本主義を震撼させるようなものにはならない、と言う。資本主義こそが唯一持続可能なシステムなのだから、人類はそれと気長く付き合うほかはない、といったある種の諦めの勧めまで盛んになったほどだ。

しかし、資本主義が未来永劫持続可能なシステムとする見方には大した根拠はない。そういう見方は、資本主義は歴史を超越した永遠不変のものであって、人類の本質に根差していると考えがちである。そういう考えに立てば、資本主義は永遠の昔から、つまり人類が生まれた時からあり、永劫の未来まで、つまり人類が存在している限り存在しつづけるものだと考える。しかし資本主義は永遠の昔からあったわけではなく、せいぜい数百年前に成立したものだ。つまり歴史的な起源をもっている。起源つまり始まりがあるものには終末つまり終わりがあるものだ。これは資本主義の擁護者には絶対許せない意見であるが、そうした資本主義の歴史的性格を指摘したのがマルクスだった。そのマルクスの意見をグラムシは受け継いでいるわけだから、グラムシの復活がもしあるとして、それはマルクスの復活と強く結びついたものになろう。

マルクスは、資本主義の歴史的制約性を確認したうえで、それの社会主義への転化を必然的なものと主張したのだった。その場合、社会主義とは計画に基づく社会システムの運営をイメージしていた。それに対して資本主義の擁護者は、極端な自由放任を金科玉条にする傾向が強い。いまでも影響力を保っている新自由主義などは、その最たるもので、個人の自由な意思をすべての前提にする。少しでも、国家の介入とか市場のコントロールとかいったものを認めようとしない。国家などは、夜警的な機能だけを果たしておればよく、なしですませればその方がベターであると考える。

こうした考えは、たしかに資本主義の勃興期には大きな意義を持ちえたが、資本主義が高度に発展した今の段階では時代遅れのものになっている。資本の集中と、市場の独占が進むにつれ、企業経営はますます計画的になっているし、また、景気循環などシステムの大きな変動には国家の介入が不可欠である。そのような、計画への傾向とか国家の役割の拡大に社会主義への動きを認めたのは、マルクスやその影響を受けた社会主義者にとどまらない。シュンペーターのような、資本主義経済学の大御所といわれる学者でも認めざるを得なくなっている。

21世紀に入ってからは、さらにグローバリゼーションが加速し、従来国境の内部で動いていた経済システムが地球規模に拡大し、それにともなって新たな矛盾も出てきている。そうした中で、資本主義の本性がいよいよむき出しになって、国家といえどもそれをコントロールできなくなると、持続可能なシステムとはとてもいえなくなる。いまや人間の欲望がむき出しのままで爆発し、金を持つものは奢侈をきわめる一方、金のないものはその日の食い物にも事欠く始末である。いまやグローバルとなった世界は、金を持ったものと金を持たないものとに分裂した。金を持ったものとは、かつての資本家の末裔であり、金を持たないものはその他大勢である。その他大勢は、かつてはプロレタリアートと呼ばれたものだが、いまでは単に「貧乏人」と呼ばれている。

金を持った連中は、それを増やすことに情熱を傾けるものだ。それがかれらの唯一の生きがいだからだ。そういう連中はかつては資本家と呼ばれていた。資本家は、資本主義の勃興期には経済の拡大に大いに貢献した。しかしいまや、かれらは、グラムシが「寄生虫」と呼ぶものに成り下がっている。かつての資本家は自ら企業を経営したりもしたものだが、いまの金持ちは、金を投資してそこから利子を得ることを追及するだけである。つまり現代の資本家は利子生活者に成り下がってしまったのだ。その利子生活者にとっても、資本主義システムは好ましいものではなくなりつつある。なにしろゼロ金利とかマイナス金利とかが世界規模で一般化した中で、かれらは利子を得る大きな機会を失ってきている。それでも金は有り余るほど持っている。そうした行き場のない金は、ばくちをはけ口とする。いまや世界中の金融取引市場は、資金の調達の場ではなく、ばくちの賭場と化している。それに伴って、資本主義を擁護する経済学者の学説も変質してきている。いまや資本主義経済学は、神経科学や心理学の一領域といってよいほどだ。それはばくちが人間の心理を舞台としていることから来ている。経済学は、健全な経済シムテムについての科学的な学問という外皮を脱ぎ捨て、露骨な金儲けを狙いとした博打の予想屋に成り下がっているのだ。

こんなわけで、資本主義の矛盾が一層激化し、爆発寸前だというのが21世紀のいまの状態だ。この状態は、グローバル化した資本主義が、地球規模で活躍することと相応している。いまや資本は国境を無視して拡大し、国家のコントロールが効かなくなってきつつある。人間の金儲けへの欲望が、何に妨げられることもなく、むき出しの形で追及される。それが終末に近づきつつある資本主義の姿である。そうした資本主義末期の姿は、これまでマルクス主義者たちによっても注目されることがあまりなかったのだが、ひとりグラムシだけは、それを正確に見抜いていた。グラムシが追及したのは、ソ連型とは違った西欧型の社会主義であり、それは基本的に農業社会だったロシアとは異なる、高度に発展した資本主義国家群を念頭に置いていた。そうした高度な資本主義国家においてこそ、マルクスが予見したような社会主義革命は起きる。しかしそれは一朝一夕で実現されるものではなく、長い時間をかけたものになるだろう。こうしたグラムシの予想に近い事態が、いまや全世界的に起きつつあると見てよい。資本主義のグローバル化に伴い、地球全体が一つの市場に収斂しつつある。つまりいまの資本主義が、地球規模の高度資本主義といってよい状態だ。これはおそらく、考えられる中で最高度の資本主義の発展段階だといってよい。つまりグランムシが予想したような、資本主義の最後が訪れつつあると言えるのである。

資本主義から社会主義への移行の条件がかなり成熟したということを踏まえたうえで、ではその移行の実践主体はだれか、ということが問題になる。これについてグラムシは、マルクスにしたがって、労働者階級であることを疑わなかった。かれとシュンペーターら社会民主主義者との最大の相違は、社会改革の主体を誰に求めるかにあった。シュンペーターらは、労働者階級を信頼していなかった。労働者階級は、改革の主体ではなく、労働組合を通じて勝ち取った既得権益を守る保守的な存在だと見ていた。じっさいアメリカや日本の労働組合を見ているとシュンペーターらの指摘の適切さを感じさせられる。

これに対してグラムシは、あくまでも労働者階級の先進的な役割を信じて疑わなかった。だが、グラムシのそうした期待は、果たして報われるのか。そこが大きな問題となって、社会主義運動の未来に立ちふさがっている、と言えるのではないか。





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