マルクスの思想の核心的部分は、資本主義への批判と資本主義後におとずれる社会主義・共産主義のビジョンを示したことだ。このうち資本主義への批判については、巨大な影響を及ぼしたといえる。いまでもその有効性が失われていないのは、斎藤幸平のような若い世代がマルクスの資本主義批判を受け入れていることにも現れている。19世紀の半ばごろに確立された資本主義批判の学説が、21世紀なってもまだ巨大な影響を及ぼしつづけているというのは、壮大な眺めだ。しかもマルクスの資本主義批判の影響力は21世紀になってますます高まっているように思われる。それは、モーゼの宗教がモーゼの死後数世紀を経て強固なものになったというフロイトの説を想起させる。マルクスの説も、マルクスの死後一世紀以上を経て、世界中に受け入れられたのである。
資本主義批判に比べると、マルクスの社会主義・共産主義のビジョンは、今一つ人気がない。それにはソ連型社会主義の失敗や中国型社会主義の権威主義的性格が大いに影響している。共産主義を目の敵にして資本主義を擁護するものどもは、ソ連型社会主義の失敗や中国型社会主義の権威主義的・非民主的な性格をあげつらうことで、マルクス主義の破綻の証拠としている。いまやマルクス主義に基づいた経済・社会モデルは破綻し、資本主義こそが唯一可能なモデルであるというわけである。しかし、ソ連型社会主義や中国型社会主義をよくよく分析してみると、マルクスの思想とはほとんど縁がないことがわかる。ソ連型は、社会主義の外皮をまとってはいたが、その実、経済発展・近代化の一つのモデルとしての開発独裁であったことが明確である。中国の場合には、マルクスの名を持ちだしてはいるが、その統治の基本的な特徴は、中国歴代の王朝支配を再現したものに過ぎないことがわかる。したがって、ソ連型社会主義も中国型近代化モデルも、マルクスの思想に基いたものとはいえない。だから、それらの失敗や問題点を根拠にして、マルクス思想の破綻を結論付けることはできないのである。
マルクス自身は、社会主義・共産主義の実現は、高度な資本主義を前提にしていると考えていた(少なくとも資本論においてはそうだし、また生涯を通じて、基本的にはそのように考えていたといえる)。とはいえ、マルクスは共産主義のビジョンを明確に示したというわけではなかった。資本主義には、消滅に向かう必然的な傾向が内在しており、いづれは超克されて共産主義社会へ移行すると考えていたが、その共産主義についてのビジョンを明示的に示したわけではない。マルクスがとりあえず共産主義としてイメージしていたのは、ユダヤの原始共産制であったようである。かれは、原子共産制の最大の特徴を女の共有に求めた。女を共有する社会というのは、私的な家族からなっている社会ではない。それは女を共有するくらいだから、子供をはじめ家族の成員や暮らしの基盤も共有することになる。じっさい、こうした考えに基く社会は、イスラエルの建国後、キブツの形成という形で実現された。キブツはユダヤ人の原子共産主義思想を20世紀に再現したものである。マルクスはそういうユダヤ的な原子共産主義にあこがれているところがあって、資本主義後におとずれる社会の形は、配偶者の私有をはじめすべての財産の私有を排した共産主義のイメージを原型にすべきだと考えていたのである。
こんなわけであるから、マルクスに依拠して社会主義・共産主義の実現を夢想した人々は、どのような形の社会が理想的な共産主義をイメージしているかについて、共通の認識をもてなかった。またその実現に向かってどのように運動していくかについてもさまざまな議論がなされた。それを簡単に整理すると次のようになるだろう。
まず、ソ連型社会主義のモデルをマルクス思想の正嫡ではないとしたうえで、正嫡の革命理論はどのようにあるべきかということになる。基本は、高度に発達した資本主義を前提とする考えである。資本主義が最高度に発達すると、その矛盾が回復不能なほど激化し、資本主義は乗り越えられる。その場合に、資本主義の廃絶を一定の暴力をもって実現するのか、それともそんな暴力的な介入なしに、資本主義自らがその反対物に自然と転化するのか、という見方の相違がある。前者はグラムシをはじめとした西欧型マルクス主義者の見方であり、後者はシュンペーターをはじめとした社会民主主義者の見方である。西欧型マルクス主義者は、資本主義の転覆に果たす労働者階級の決定的な役割を強調し、資本主義後におとずれる社会は、労働者が中心になって運営される社会と考える。その場合、労働の社会化という言葉がキーワードになる。社会化された労働が資本にかわって生産をコントロールし、政治はじめ社会の上部構造を支配するといったイメージである。
これに対してシュンペーターに代表される社会民主主義は、資本主義は、資本の社会化を通じて高度に訓練された膨大な官僚層を生み出し、この官僚層が従来の資本家にかわり生産をコントロールすると考える。このコントロールの内容は、計画的な経済運営という形をとる。その計画を起案し実現するのは官僚層であるから、これは一種の官僚支配社会のイメージとなる。
以上二つの中間にはある程度のバリエーションの相違がありうる。労働者階級の連帯を重視するものは、労働者の中央権力を確立し、その権力のもとで労働者の利益をはかることを目指すだろう。その場合には、企業や資源の公有化(国有化)が重視されるだろう。一方労働者の自律性を重視するものは、地域的・企業内的労働者団体を社会の基本組織と位置付け、それらさまざまな組織の緩やかな連合というようなものをイメージするだろう。いずれにしても、以上の立場に共通するのは、労働者階級を社会主義・共産主義の実施主体と考えることである。
ところが、斎藤は、かならずしもそうは考えない。斎藤はそもそも資本主義の矛盾を解消する主体として労働者階級だけを想定しているわけでもないし、また高度に発展した資本主義だけが社会主義・共産主義を用意するとも考えていない。そういう考えを斎藤は成長至上主義だといって拒否するのである。斎藤が掲げる理論は「脱成長コミュニズム」である。それは、資本の高度な発展が社会の望ましいあり方とは考えない。持続可能な地球を確保するには、成長信仰から脱却しなければならないと考える。だから、脱成長コミュニズムの実践主体は、労働者階級に限定されるわけではない。斎藤は、スラヴォイ・ジジェクをかなり気にしているのだが、ジジェクはコミュニズムの実現に関して労働者階級にはまったく期待していない。理由は、労働者階級がある種の既得権益団体と化していて、社会改革の主体としての意識に欠けているからだ。アメリカの労働組合はもやは労働者全体を代表しているとはいえず、いわゆる労働貴族の利害を代表しているに過ぎない。そんなふうに見られているからこそ、レーガンは果敢に労働組合つぶしが出来たのである。日本も同じようなものである。連合はもはや労働者全体の代表ではない。大企業に巣くう労働貴族層の代理人に過ぎない。その連合に負んぶされている政党もまた、労働貴族層の代理人である。
そんな具合に、ジジェクは労働組合の変革パワーに疑問を投げかけ、かれの言う「ポストモダンの共産主義」の実践主体をルンペンたちに求めたのであった。斎藤はそんな極端な発想はしない。かれは労働組合だけに革命の実践主体としての役割を認めたわけではないかわりに、労働者を新しい「脱成長コミュニズム」の実践から排除することもない。かれは、資本主義に対抗して持続可能な地球を目指すさまざまな組織がつながることに、改革への希望を認めているのだが、そうしたさまざまな実践主体の組織の一つとして、労働組合にも一定の役割を与えている。
脱成長コミュニズムの実現に向けた斎藤の見取り図は、かなり甘いところがある。斎藤は市民の主体的な能力に最大限の信頼を置いているらしいが、その市民の連合が、斎藤が期待するような働きをできるかどうか、かなり疑問があるところだろう。斎藤は、地球が住めなくなる前に資本主義を超克しなければならないといって、人々に危機意識を植えつけようとしているのだが、その資本主義の超克に向けての市民の動きが十分効果を表す前に、地球が存続の期限を迎えてしまう可能性はかなり高い。人類はそんなに賢くはない、というのが真実かもしれないのだ。
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