日没:桐野夏生を読む

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ディストピア小説には、大きく分けて二つのタイプがある。一つはオーウェルの有名な小説「1984」に代表されるもので、強大な権力による個人の抑圧が主なテーマだ。この手のディストピア小説は、わかりやすく、また現実の権力と密接に結びついているので、権力が可視的に暴力を伴うようになると、それを批判する意味合いで小説のテーマに取りあげられることが多くなる。

もう一つは、カフカの一連の小説に代表されるもので、こちらはむき出しの権力を描くというより、社会全体の抑圧的な雰囲気を描くという傾向が強い。カフカの小説の中では、権力は表面には出て来ないで、社会全体がなんとなくおかしな雰囲気になっている。そういう不気味さが個人を不安にさせるさまを主に描く。そんなことから不条理文学と呼ばれることがある。オーウェルの小説では、権力は可視化されており、その意味でわかりやすく、それなりに条理にかなっているのだが、カフカ的な世界では、条理が崩壊して社会全体がしっかりとした基礎を持たなくなる。

桐野夏生の小説「日没」は、オーウェル的な意味でのディストピア小説である。この小説のテーマは、国家権力による個人の治療である。国家権力の期待する人間像から外れた個人を暴力的に矯正するというのは、オーウェル的なディストピア小説の典型的なパターンと言ってよい。オーウェルの「1984」では、ビッグブラザースという、コミュニストパーティを連想させるような権力機構が、権力に批判的な個人を抑圧するわけだが、桐野のこの小説では、日本という国家の一機関が、大して影響力のない女性作家を、治療という名目を借りて抑圧する。この女性小説家は、ある日突然国家機関(総務省文化局の文化文芸倫理向上委員会という名称の出先機関)から呼び出され、有無をいわさず監禁される。その後、この機関の職員たちによって、身体的・精神的拷問を受けたあげく、自殺に見せかけた死を強要されるのである。主人公の死で終わるところは、オーウェルの「1984」よりも、カフカの「審判」を思わせる。「審判」の主人公は犬のように死んでいくのだが、この小説の主人公マッツ夢井は、なんとなく断崖から飛び降りるはめに陥る。

桐野がこの小説を書く気になった動機がどのようなものかは、およそ察しがつく。彼女は同時代の日本の雰囲気に怪しいものを感じ、その違和感を小説にしたのだと思う。このごろの日本は、同調圧力が極度に高まってきており、世の中の雰囲気から浮き上がって見えるものに対して不寛容である。その不寛容さを政治が煽り立てている。それも正義の名のもとでだ。この小説では、主人公が連行された理由は、ヘイトクライムの容疑からだということになっているが、そのヘイトクライムなるものの定義はなされていない。単に一読者から、作家を攻撃する投書があったというのが、唯一理由らしいものである。その読者は、社会の声を代弁しているのであり、その社会の声に同調しない者は、日本という国に居場所を持たない、というのが国家権力の論理のようである。つまりこの小説は、国家権力が煽り立てる同調圧力を、ディストピア小説という形で表現しているわけである。

「1984」の主人公は、権力の横暴に対して屈せず、戦う姿勢を見せた。この小説の主人公マッツ夢井もやはり激しく抵抗する。そのたびに身体的・精神的拷問のレベルが上がっていき、ついには権力の怒りを招いて死に追いやられる。だが、権力といっても、国家という形態をむき出しにした組織的なものではない。具体的な人間の形をとった身近なものである。しかもその身近な権力は、堅固な組織性にもとづいて行動しているというより、たまたま案件を担当した小役人が、個人的な感情に動かされながら、行き当たりばったりに行動しているというふうなのである。権力は公的なものだが、それを行使するのは一個人であって、その個人の人間性が介在するのは、ある意味避けられないことだが、この小説の中の権力は、かなり恣意的なのである。

ディストピア小説というのは、かなりハードな形態での人間破壊を扱っているので、抑圧される側の人間がやわに出来ていては迫力に欠ける。ある程度芯の強い、自己主張のはっきりした人間でなければ、小説として腰砕けになる。だから、ディストピア小説で、迫害の前面に立つのは大体が男性なのだが、この小説の主人公は女性である。しかも彼女と同じ女性がこの小説の作者でもあるのだ。だからこの小説は、女性による女性を主人公にしたディストピア小説ということになる。女性と男性とでは当然、身体的にも精神的にも相違があるはずで、たとえば拷問の受け止め方一つとっても異なった反応が予想される。この小説のなかの主人公も、女性らしさを感じさせる。女性らしさといっても、男のやさしさについだまされてしまうというくらいで、特に目立った特長があるわけではない。あえて言えば、食べ物に強いこだわりを見せたり、自分の周囲の環境に身体的な関心を示すということくらいか。

この主人公は、自分を政治的な人間とは思っていない。だからなぜ権力の怒りをかったのか理解できない。そのため、やがては誤解が解けて解放されるだろうと思い込んでいる。だが、その思い込みは甘すぎた。彼女は、読書の投書にもとづいて逮捕・監禁されたということになっているが、それは彼女の不法行為を罰することが目的ではなく、彼女を世間の雰囲気に同調させることが目的なのであった。それゆえ、彼女は、名目上は治療のために療養させられているということになっている。精神家の医師も出てくる。その医師が、彼女は治療不可能だと確信したときに治療が終了する。終了した後、彼女は娑婆には戻してもらえない。娑婆の雰囲気に同調できないものを、戻すわけには行かないのだ。そこで彼女には死の運命が待っているのだが、それは権力によって直接与えられるのではなく、自殺という形で装われるのである。

小説のラストシーンは印象的だ。彼女は、拷問の末に衰えた身体に鞭打ちながら、療養所からの脱走を試みる。療養所の職員が脱走を手引きしてくれたので、彼女はそれを信じて脱走の決意をするのだ。療養所の建物を出ると、かつての顔なじみが待っていて、彼女を入り江の崖のほうへ導いていく。彼女が入り江の崖の淵に立つと、その顔見知りは早く飛び降りろよと促す。そこで彼女ははじめて、自分が飛び降り自殺を強要されていることに気づくのだ。迂闊と言えば迂闊な話である。

この崖のある入り江は、茨城県の海岸にあるという設定なので、地図を広げてあたってみたら、高萩市の海岸にある入江らしいことがわかった。その入り江は、両側を、あたかも突き出た腕のような形の半島に囲まれて、内海のような体裁を呈している。その半島の一角にたっている療養所は西に向いていて、普段は西日があたり、したがって日没も見えるのだが、彼女が崖から飛びおりるように促されたのは、半島の先端のほうであって、そこからは日の出が見えた。彼女は日の出の光を浴びながら舞い落ちることになるはずだ。

ともあれこの小説を読むと、今日の日本社会の閉塞感が伝わってくる。桐野はこの小説を通じて、物言う作家という名声を確立したようである。





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