ドゥルーズのベルグソン論

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ドゥルーズがベルグソンの大きな影響下に哲学者としてのキャリアをスタートさせたことはよく知られている。かれの初期の思想のキー概念は「差異」と「反復」で、この二つの言葉を結合させた「差異と反復」というのが、彼の初期の代表作のタイトルとなったくらいだ。しかしドゥルーズによるベルグソンの読み方にはかなり手前味噌なところがあり、ベルグソンについての忠実な注釈書と見るわけにはいかない。

ベルグソンは、自分の思想のキー概念として「差異」という言葉を「意識の直接与件」以来使っているが、「反復」という言葉は殆ど使っていない。少なくとも、重要な概念としては使っていない。だいたいかれは「差異」を、「質的差異」という具合に、「質」と組み合わせて使っているし、従ってそれとの対立関係にある概念は「量的な段階」といったものだ。「質的差異」という言葉でベルグソンが意味しているのは、精神と物質との根本的な差異であり、また精神内部におけるさまざまな要素の間の質的な差異である。これに対して「量的な段階」とは、数とか強さとか、要するに量に還元できるようなものである。質的な差異は持続によって担われ、量的な段階は空間によって担われるというのがベルグソンの基本的な考えである。

ドゥルーズが「差異と反復」と言う場合に、ベルグソンの「質的差異と量的段階」とはかなり違ったニュアンスが込められる。たしかにドゥルーズも、「記憶が本質的に差異であるように、物質は本質的に反復である」(「ベルクソンの哲学」宇波彰訳、以下同じ)と言っており、精神内部のさまざまな要素に見られる「質的な差異」と、対象としての物質を特徴付ける「量的段階」とを区別しているところはある。ドゥルーズはそう言うことで、精神の本質は質的な差異なのであり、一方空間に集約される対象界はいくらでも反復可能な量的な段階なのだと言っているようには聞こえる。しかし、基本的な点では、ドゥルーズの「差異と反復」をめぐる議論は、ベルグソンの議論から大きく逸脱しているように聞こえる。

ドゥルーズの「差異と反復」を巡る議論を、ごく単純化して言うと、ベルグソンが精神と物質との間に設けた厳格な二元論を、第三の概念を媒介にして橋渡ししようとするところにある。その橋渡しをするものは、「直観」である。この「直観」という概念を便利に使いこなすことで、かれはベルグソン的な二元論を、かれ独特の一元論へと導いていくわけである。直観を媒介項にした一元論とは、結局は精神によってすべてを説明することにつながるわけで、その意味では唯心論と言ってもよい。そうした意味合いの唯心論はベルグソンにも見られないではないが、ベルグソンは、表向きはあくまでも精神と物質の二元論を強く主張した。ドゥルーズはそれに対して、露骨な唯心論を展開するわけである。ドゥルーズは自分自身を徹底した唯物論者だと考えていたフシがあるが、そのかれが実質的に唯心論の主導者になるというのは、ある意味皮肉なめぐりあわせといってよいのではないか。

ともあれドゥルーズは、ベルグソンから触発されながら、興味をそそる議論を幾つか展開している。もっとも興味深いのは、「方法としての直観」を巡る議論である。ドゥルーズは直観を、ベルグソンの哲学の方法であるとしながら、その方法の規則として三種類のものをあげる。にせの問題の否定、真の質的差異または実在の区分、空間によってではなく時間によって問題を提起すること、これである。このうち哲学的にもっとも興味深いのは「にせの問題」を巡る議論である。

「にせの問題」というと、ウィトゲンシュタインの「語りえないこと」を巡る議論を想起させるが、たしかに両者には一定の類似点が指摘できる。ウィトゲンシュタインの「語りえないこと」とは、意味を持たないことという意味であって、かならずしも存在しない空虚な事柄という意味ではなかった。存在はしないが中身はあるというような事柄は世の中には多数ある。たとえば「麒麟」というような概念である。これは現実には存在しないのだが、一定の中身はあるわけで、したがってそれについて語ることはできる。しかし、生きている死者というような概念は、あらゆる意味で意味のある内容は持たず、従って語るべきものでもない。ウィトゲンシュタインは、そうした無意味なことについては、語りえないこととして、沈黙することを奨励したわけだ。それに対してベルグソンの「にせの問題」とはいかなるものか。

ベルグソンが「にせの問題」として具体的に言及しているのは、「存在しない問題」と「提起の仕方のよくない問題」である。「存在しない問題」というのは、本来存在しないことがらについてあれこれと議論することをいう。これには非存在としての無とか、秩序の不在としての無秩序とか、可能的なものについての議論がある。無は存在の入れ物のように思われているが実はそうではなく、我々が期待したものがそこにないという意味に過ぎない。また無秩序とは我々が期待した秩序とは違う秩序がそこにあるという意味であり、また、可能的なものとは目前にある現実のものを単に過去に投影した結果にすぎない。このように、本来存在しない事柄についてあれこれと議論しても何ら意味のある決論は得られないとうのがベルグソンの考えであり、それを踏まえたドゥルーズの意見でもある。

「提起の仕方のよくない問題」とは、質的に異なるものをごっちゃにして提起するようなものである。その一例として「快楽」が挙げられる。この言葉は、幸福という言葉と同じく非常にさまざまな状態を包含しているいるのであるが、それらの間の質的な差異を明確にしないで、いわばごちゃ混ぜに扱うとすれば、それは事物の性質そのものにはかかわりがない議論であって、したがって「にせの問題」を扱っているということになる。ともあれ「提起の仕方のよくない問題」とは、質的な差異を無視して、なにもかも量的な段階の相違に還元してしまうような扱い方といえるだろう。

問題を提起するさいに最も肝心なのは、それが創造をもたらすことだとベルグソンはいい、またドゥルーズもそれに賛同する。答えがあらかじめわかっているような問題は、提起することに大した意味はない。答えがわからないようなものを提起してこそ人類は進歩できる。ベルグソンには「創造的進化」の思想が根底にあって、人類を含めたあらゆる存在はたえず進歩しているものであるし、また進歩すべきだという信念があった。だからそうした進歩につながらない問題の提起では意味がないのだ。答えがすでに用意されている問題は、いつかは発見される。それは放っておいても、やがては発見される。しかし答えが用意されていない問題は、新たに創造されねばならない。それは難しいことではある。マルクスは「人類は解決できる問題だけを提起する」と言ったが、それは人類の惰性を指摘したものだ。たしかに人類は解決できる問題だけを提起したがると言ってもよいが、そうした問題の中には、全く新しい解決方法を付け加えるようなものも含まれている。そうした問題を発明することこそ、人類の「創造的進化」にとって肝心なことなのだというのが、ベルグソンの考えであり、またドゥルーズの意見でもあるようだ。





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