青春の殺人者:長谷川和彦

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長谷川和彦の1976年の映画「青春の殺人者」は、中上健次の短編小説「蛇淫」を映画化したもの。原作は1974年に千葉県市原市で起きた親殺し事件を下敷きにしたものだが、そこには中上らしい事件の読み方が働いていたように思える。この事件は、裕福な家庭の息子が一時の激情に駆られて刹那的に両親を殺してしまったといわれるが、中上はそこに、激情の背景にあったものを見ているようなのだ。現実の犯人は、娼婦まがいの女との交際を両親に咎められてかっとなったと言われたが、この映画の中の息子はもっと鬱屈した感情をもっていたように描かれている。この映画の中の女は、母親の連れ合いの男からレープされたり、複雑な過去を背負っており、そんなこともあって、社会的に差別されているように描かれている。中上自身は、差別に対して非常に敏感なので、この小説の中の若い男女も、社会の差別意識の犠牲になったのではないかと思ったフシがある。

水谷豊演じる若い男と原田美枝子演じる若い女が主人公だ。水谷は父親から店を建ててもらってカフェを経営しており、原田はそれを手伝っているという設定だ。そんななか、実家にちょっとした用で立ち寄った水谷は、父親から女のことで散々説教されているうち、かっとなって包丁で刺し殺してしまう。父親が原田を娼婦のように貶めたことが我慢ならなかったのだ。水谷と原田は幼馴染であり、深く愛し合っていた。それを父親から、原田のことをぼろくそに言われて、感情を抑えることができなかった。その際の父親の言い方には、原田に対する強烈な差別意識が感じられるようになっている。

息子の行為に驚いた母親(市原悦子)は、一方ではなんとかして息子を助けたいと思いながら、他方ではこんな事態の原因となった原田を激しく憎む。その憎しみの感情が息子との間に修羅場を作り出し、その挙句息子は母親をも殺してしまうのだ。

自分の犯した罪に驚いた息子は、次第に精神の均衡を失っていく。息子は両親を憎んでいたわけではなく、むしろ深く愛していた。この両親は自分たちの身を削る努力を通じてどん底から這い上がり、なんとか世間並みの暮らしができるようになった。そんな両親の努力とかれらが自分に注いでくれた愛情を思うと、息子は取り返しのつかない忘恩の行為をしたことに愕然とするのだ。

深刻な事態を前に、息子は原田と共に、両親の遺体を海に沈めたり、何食わぬ顔で生き延びようと考えるのだが、折々に両親のことが思い起され、心は乱れるばかりなのだった。そのうち、精神のバランスを大きく崩した息子は、自分の店に火をつけて焼身自殺しようとする。しかし死に切れないで、原田に助けられる。生きることに絶望し、死ぬ事も出来ない、ぎりぎりの瀬戸際に立たされた息子は、原田の目を盗んで、当てもないまま放浪を続ける、というような内容である。

一応水谷豊演じる息子が主人公であり、かれの視線から映画は語られていくのだが、その息子を激情させた原田の存在感が圧倒的である。映画では、原田こそが事件全体の鍵となる人物だというメッセージが濃厚にあふれている。これはおそらく、中上の女主人公へのシンパシーをそれなりの形で表現したのだと思う。だからこの映画の真の主人公は原田演じる女だといってよい。その原田は、このときまだ十七歳だったが、すでに成熟した雰囲気を感じさせる。

現実の事件の舞台となった千葉県市原市のいわゆる京葉工業地帯の工場コンビナート群が折々に画面に映し出される。また、その当時話題をさらった成田空港建設をめぐる騒乱も、さらりとではあるが触れられている。水谷の友人や店の客など、地元の千葉県人はかなり粗暴に描かれている。千葉県人といえば、まず長嶋茂雄が思い浮かぶ。その長島からは、単純で気のいい人間のイメージが伝わってくるが、それはいいかえれば粗暴ということなのだろう。





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