路上のX:桐野夏生を読む

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「路上のX」は、桐野夏生の小説世界の集大成といってよい。もっとも桐野には「日没」という作品があって、それが彼女の文学の最高の達成といえるから、集大成とはいっても、暫定的な意味合いがこもっているのは否めない。この作品は、日本社会全体をある種のディストピアと想定しているところがあるので、究極的なディストピアをテーマにした「日没」とは連続性を指摘できる。そういう意味では、「日没」に対しては前駆的な意味合いを持っているのだが、それ以前の作品全体に対しては集大成的な意味合いを持つ。言ってみれば桐野は、この小説を書くことで、それまでの自分の文学的達成に一応の区切りをしるす一方で、「日没」というあらたな文学世界へ踏み出したともいえる。桐野にとっては、色々な意味で、画期的な作品なのではないか。

まず、集大成という意味合いの内実について。桐野には、初期の頃から、社会が抱える問題についての厳しい批判意識があって、その批判意識が作品に鋭い緊張感をもたらしていた。そうした問題のうちでも、女性が直面する問題について、女性作家である桐野がこだわったのはある意味自然である。貧困や売春といった問題は、女性のほうにより先鋭に現われるが、それは日本社会がそもそも女性蔑視的な体質を抱えているからだと桐野は断定して、女性をめぐるさまざまな社会のゆがみをあぶりだしていく。そうした桐野の小説世界が、女性の視点から描かれるのは自然なことだ。女性は自分を社会的な弱者として意識し、自分が迫害されたり搾取されていると感じる。その感じは敵を設定することに結びつく。桐野の小説の最大の特徴は、社会的に弱い立場にある女性が、自分を迫害しようとする敵と戦うところを中心に展開していくところにある。桐野の小説はだから、女の戦いを描いたものだということもできる。

その敵は、出世作である「OUT」では、具体的な一人の男という形をとっていた。主人公の女たちは、その男との間で壮絶な戦いをくりひろげ、その戦いに勝つことで、自分の運命を切り開いていくというような設定になっていた。そうした女の戦いのイメージは、その後の桐野作品を特徴付ける要素となった。その要素が「路上のX」でも引き継がれている。この小説では、主人公は大人の女ではなく、成長過程にある少女たちである。その少女たちを、悪い大人たちが寄ってたかって食い物にする。その男たちが象徴しているのが、同時代の日本そのものである。この小説では、日本という国が、少女たちへの敵となっている。少女たちは、生きるためにはこの日本という敵と戦わねばならない。自分が生きている国が、自分にとっての最悪の敵だというのは、まさしくディストピアトとしての国家のイメージであって、そこが「日没」のディストピアにつながるところである。

以上は、小説の構成に即した指摘だが、小説の語り方についても、この小説は桐野世界の集大成ということができる。桐野は、自分の小説の語り方の特徴を、三人称複数視点からの語りだと言っている。これは、小説の語り手を一人の視点に集中させるのではなく、複数の視点に分散させるとともに、それぞれを三人称で語るというやり方である。この方法は、「OUT」に続く「柔らかな頬」で豊かな果実を生むことになり、小説の有力な語り方として、桐野の存在感を高めたものだが、桐野はその後、一人称的な語り方を取り入れるなど、語り方のバリエーションを試したこともあった。「路上のX」は、三人称複数視点という桐野の原点に立ち戻り、小説の展開に厚みをもたらしている。

一区切りとしての集大成という位置づけを超えて、「日没」につながる要素を指摘するとすれば、やはり鋭い社会批判意識がこの小説で一定のピークに達したということだろう。そのピークを足場にして、もっと高いピークを目指したというのが、「日没」につながる桐野の営みだったのではないか。「日没」は、日本という国家をディストピアに設定した作品だが、そうした意味でのディストピアは「路上のX」のテーマでもある。「路上のX」の少女たちは、自分たちを食い物にする大人たちにもみくちゃにされながら、なんとか生きていこうとする。彼女らの生きているディストピアが、「日没」のディストピアと違うのは、「日没」ではむき出しの権力が個人を自由に始末しているのに対して、「路上のX」のディストピアでは、一応少女たちに、主観的なレベルでの選択の幅があるという点だ。もっともその選択の幅は、絶対的な限界をもっている。その限界内での選択は、せいぜい「誰に」体を売ろうか、というようなレベルでしか働かないのである。

前書きが長くなったが、ここで内容面への検討に入ろう。この小説は、家族が解体したり、家族内暴力の犠牲になったりして、家庭に居場所を失った少女たちがいわゆるホームレスの境遇に陥ったところを描く。日本社会でホームレスの境遇に落ちるのは、誰にとっても厳しいことだが、とりわけ未成年の少女にとっては、想像を絶した厳しさである。少女たちは、自分の売れるものは自分の体だけだと思わされているし、大人の男たちはそんな少女たちを性的搾取の対象としか見なしていない。一応金を払って性的ゲームを強要する者もいるが、中には無銭飲食同様、金を払わずに強姦するやつもいる。少女は身体能力は子どもなみだし、力ではかなわないから、強姦されるままだ。そうした場面を読むと、今の日本社会というのは、相対的に力の強いものが力の弱いものを相手にやりたい放題の無法をやって誰にも咎められない、究極の弱肉強食の野蛮な世界だというメッセージが強く伝わってくる。この小説を通じて桐野は、日本社会を究極の格差社会として告発し、そんな人間たちを野蛮な文明人として捉えているようである。とにかく人間を動かしているのは、むき出しの欲望だけなのである。

この小説で一つ救いなのは、主人公格の三人の少女、とりわけ真由という少女とリオナという少女との間に強い連帯感があることだ。彼女らは、偶然知り合い、境遇が似ていることから仲良くなっていくのだが、力を合わせてなんとか世の中を渡っていこうとする。一人ぼっちだったら、重圧に耐え切れずにどこまでも転落してしまうだろう。連帯することの出来る人がいると、心の励みになるだけでなく、生きる智慧も湧いてくるし、前向きな気持になることができる。じっさいこの小説の中の少女たちは、自分たちなりに未来への道筋をつける希望を失わないのだ。

真由とリオナのうち、よりひどい境遇なのはリオナのほうだ。彼女は家族からも完全に切り離され、まだ17歳というのに、一人で生きていく決意をしている。少女が一人で生きていくことは不可能ごとに近い。やがてヤクザ者の餌食になるのがオチである。そんな絶望的な境遇に中でも、なんとか生きようと努めるのは、生きものとしての人間の悲しい性だ、と言っているように聞こえてくる。一方真由のほうには、母親がいて、手をさしのべてくれたりもする。その手を振りほどいたのは、夫や子どもらを捨てて他の男を選んだ母親が許せないからだった。真由は母親の差し伸べた手を振りほどく際に次のように言うのだ。「許せねえよ・・・絶対に母親だけは許せないと思った。かといって、不潔な男たちに身を売って生きていくのだけはごめんだ、さあ、どうやって生きる」。この「どうやって生きる」という言葉には、生き物としての人間の性が込められているのである。

真由はとりあえず母親から幾許の金をせしめる。その金でアパートを借りて、リオナと暮すつもりなのだ。もう一人の仲間ミトは流産のために入院したときに知り合った老人の世話になるつもりだ。三人とも当面の身の振り方が決まれば、将来助け合ってなんとか生きていけるのではないか。そんな希望を暗示しながら小説は終わるのである。その点は、救いのない結末にはなっていない。

桐野は現代の若者文化をよく研究しているらしく、若者言葉と思われるスラングを随所で使っている。「JKリフレ」とか「ドン引き」といった言葉など、それまで小生が聞いたこともない言葉だった。意味を確かめるためにスラング辞典にあたったほどである。





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