蔦燃:高樹のぶ子を読む

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久しぶりに読んだ高樹のぶ子の小説第二冊目「蔦燃」は、まさしく小生の記憶にあった高樹らしさが現れた作品だ。高樹の高樹らしさを小生は、官能的というところに認めているので、前回読んだ出世作の「光抱く友よ」はそれに当てはまらなかったのだが、この「蔦燃はまさしく官能的な小説である。というか、その性愛の描写は、ポルノ小説といってよいほどである。小生は高樹を長い間、日本を代表する女性ポルノ作家と思ってきたのである。

小説の出来という点では、この作品はあまりよくないかもしれない。それでも性愛の描写はなかなか手が込んでおり、ポルノ好きの読者をある程度満足させると思う。あのポルノ作家の渡辺淳一が文庫本の解説を書いているのだが、渡辺はほぼ手放しの評価をしている。男の視点からは決して思い浮かばない男女の機微が、女である高樹の視点から濃厚に描かれており、実に新鮮だというのだ。できたら、そういう女から見たあるいは感じた男女の性愛の機微を、もっと沢山読ませてほしいと言っているほどだ。もっとも渡辺は、主人公の女が不倫相手とセックスする場面を描くだけで、亭主とのセックスを描いていないのは残念だと言っている。不倫相手とやったばかりで、亭主つまり別の男とやると、どんな具合に女は感じるのか、好色な渡辺としては、そこが知りたいというわけだ。

この小説の眼目は、男女のセックスをそれこそ官能的に描くところにあるので、筋書きはあまり重視されていない。というより、ほとんどぞんざいな扱い方である。結婚したばかりの女が、亭主の係累であるある男から言い寄られ、全く抵抗なしに抱かれてしまう。一度抱かれたら、あの燃えるような高揚感が忘れられず、不倫の婚外性交を重ねてしまう。あげくは妊娠して、その処置に困る、といったような筋書きだ。筋書きにもかなり無理があるのだが、結婚したばかりの女がなぜかくも簡単にほかの男に向かって体を開くのか、そこのところがあまり説得的には書かれていない。小生のような枯れた老人などは、亭主とやって覚えたばかりの快楽を体が強く覚えていて、それを繰り返し求めるのだと考えるくらいだ。つまりこの女は、下半身の意向にしたがって行動するのである。あるいは下半身で生きているといってもよい。じっさいこの女には、自分が置かれている危険な境遇が、全くと言ってよいほど見えていない。つまり上半身が機能していないのだ。ただただ下半身に促されて行動するのである。

こういうタイプの女をなんと言ってよいのか。小生は自分の母親のイメージもあって、日本女性は貞淑で不倫とは縁がないと思い込んでいたので、日本にもこういう下半身だけで動いている女がいることが受け入れなれなかった。そこでこれは、高樹のぶ子という好色な女流作家が考え出した虚構の女性像だろうと思ったりもしたのだったが、実際には、昨今の日本ではこういう女性も珍しくはないのだそうだ。高樹自身、そういう女性本位のセックスライフを楽しんでいるのかもしれない。

性交の場面そのものは、そう露骨には描かれていない。ただ性交を前にした、期待に満ちた気持ちの高揚は微細にわたって表現されている。「浴室にとびこみシャワーを浴びる。お湯が出てくるのも待ちきれない気分で、体のほうはもう火照っている。下半身を念入りに洗い、石鹼の泡が性器の襞に滑りこむとき、そこに起きる特別の感覚をすでに末次郎と共有していた。それでいて鏡に映る黒々としたかげりを、見苦しくはないかと点検しないではいられないのだ」。これは快楽の予感に震えながらも、自分のそんな姿を冷静に眺めている女の視線だ。その視線は、相手の「なまざしによってブラジャーの内側で硬くなる乳首を、まるで共犯者のように感じ」たりもするのである。

ところで、主人公の女が妊娠を確信したときの気持ちの描写に不可解なところがある。女はそれが誰の子か断定できないと思うのだ。女は、不倫相手とセックスしたその後にすぐ夫とセックスしたので、どちらの精子が卵子をとらえたかわからないというのだ。

これが不可解というのである。だいたいどんな女でも、妊娠した瞬間はわかるというではないか。気分が高揚するあまり、膣が膨張するほか子宮口が開く。その開いた子宮口から精子が侵入するのだが、そのさいには極度の身体的・心理的高揚を伴うはずなのだ。それを伴わずに、スルーっと精子が子宮に侵入することはあまり考えられない。そんなわけだから、誰の子かわからないというのは、よほどぼんやりした女の言うことである。

どうも高樹には、そういう大雑把なところがある。その大雑把さは、文体にも表れている。彼女の文章はかなり論理的であることめざしているらしく、そうありたいと思うあまり、文章に潤いが欠けている。どちらかというと乾いた文章である。その乾いた文章で濡れ場を描こうとするところに無理を感じる。濡れ場というものは、ねっとりとした、つまりたっぷりと濡れた文章で、官能的に、余韻を引くような文体でないと、味が出ない。






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