日蓮の即身成仏観

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日蓮の時代には庶民の間で即身成仏への関心が高まった。弟子の中には、どうしたら即身成仏できるかについて日蓮に手紙で問い合わせる者もいて、それに対して日蓮は、懇切丁寧というわけではないが、一応答えている。それはひたすら七文字の題目を唱えれば、生きたまま成仏できるというようなものだったが、そこには当然、即身成仏についての日蓮なりの考えが反映されていた。では、日蓮にとって即身成仏とは何だったのか。

即身成仏は、真言宗でもっとも盛んになったものだ。即身成仏というと、生きたままミイラになるというイメージが強いが、それはほとんど真言宗系での事だ。即身成仏の考えは天台宗にもあって、天台宗はそれを法華経の「提婆達多品」によって基礎づけていた。日蓮の敬愛する最澄も、法華経にもとづく即身成仏を説いた。日蓮はそれを受け継ぎながら、独自の即身成仏論を展開した。それには親鸞系の念仏の影響もあったようだ。念仏宗(浄土宗)のなかでも法然系は、成仏は来世のことだと説いていた。死ぬと阿弥陀様がお迎えに来てくださり、西方浄土に赴いた後に、阿弥陀様の功徳によって成仏するというのが法然系の考えである。だから基本的には、即身成仏といった思想はない。ところが親鸞系は、成仏は来世のことではなく、現世でのことだと説いた。現世で成仏するというのは、生きたまま成仏するということだ。それを即身成仏と言うことができる。日蓮の即身成仏についての考えはそれに非常に近い。

日蓮が即身成仏について述べたものとしては、弘安三年(1280)に太田殿女房に充てた手紙と、同年に妙一女にあてた手紙が有名である。太田殿女房に宛てた手紙のなかでは、真言・華厳の即身成仏を批判しながら、法華経にもとづく即身成仏こそが真の即身成仏だと主張している。その理由は、真言等が依拠する経典には即身成仏の意義が何も書かれておらず、その意味では僻事にすぎぬのに対して、法華経には詳しく述べられているということにある。もっとも日蓮は、法華経が即身成仏をどのように説いているかについては、この手紙の中では触れていない。ただ、「即身成仏の手本たる法華経をばさしおいて、あとかたもなき真言に即身成仏を立て、あまつさへ唯の一字ををかるる候、天下第一の僻見なり」と罵るばかりである。

妙一女に宛てた手紙には、即身成仏についてのもっと踏み込んだ言及がある。日蓮はまず、即身成仏を成仏のあり方の一つとして見るのではなく、それこそが法華経行者が第一に目指すべきことだと強調する。「建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間在在処処にして申し宣べたる法門繁多なりといへども所詮は只此の一途なり、世間の学者の中に真言家に立てたる即身成仏は釈尊所説の四味三教に接入したる大日経等の三部経に別教の菩薩の授職潅頂を至極の即身成仏等と思う、是は七位の中の十回向の菩薩の歓喜地を証得せる体為なり、全く円教の即身成仏の法門にあらず」

このように言って日蓮は、即身成仏こそが、自分の生涯二十七年をかけてひたすらに追及してきたことだと強調したうえで、それに比べれば真言等の即身成仏は偽物だと言うのである。では日蓮のいう即身成仏とはいなかるものか。

日蓮も即身成仏を法華経の「提婆達多品」によって基礎づけることは最澄と同じである。「提婆達多品」には女人成仏が説かれているが、その女人は生きたまま男に変身したうえで成仏したと説かれている。それを日蓮は次のように解説する。「夫れ先ず法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし、提婆品に云く『須臾の頃に於て便ち正覚を成ず』等云云、乃至『変じて男子と成る』と、又云く『即ち南方無垢世界に往く』云云、伝教大師云く『能化の竜女も歴劫の行無く所化の衆生も亦歴劫無し能化所化倶に歴劫無し妙法経力即身成仏す』等云云」

法華経の功徳によって、竜女は生きながら成仏できたのであるし、また衆生も生きながら成仏できる。法華経はそれほどありがたいお経なのだ、というのが日蓮の主張である。とはいえ、法華経をどのように受持したら即身成仏ができるのであろうか。その疑問に対しては、七時の題目を唱えさえすればよいと日蓮は答える。それについては、前年の弘安二年に妙一尼御前にあてた手紙のなかで具体的に触れられている。「夫信心と申すは別にはこれなく候。妻のをとこをおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを信心とは申し候なり」。ひたすら信心すればよい、信心とは南無妙法蓮華経の七文字を唱えることだ、というのが日蓮の教なのである。衆生はだれでも南無妙法蓮華教と唱えれば、法華経の功徳によって成仏できる、しかも生きたままに成仏できる、それを即身成仏というのだ。別に真言を唱えながら食を絶つ必要もなく、また、ほかに特別な修行が必要なわけでもない、ただひたすら南無妙法蓮華経と唱えればよいのだ。なお、妙一尼と妙一女とは別の女性だというのが今日の定説である。

こうして見ると日蓮の主張は、菩薩となって衆生を救済することを目指すという点では自力重視の特徴が強いが、即身成仏に代表されるような、法華経による(他力)救済という部分も含んでいることがわかる。日蓮の思想はそういう点で、自力と他力に分かれて発展してきた従来の大乗仏教運動を総合するようなところがあるのではないか。





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