勝鬘経を読む

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「勝鬘経」は、聖徳太子の「三経義疏(法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)」の一つであることもあり、日本では古代からよく知られたお経であった。大乗仏教の基本的な思想をほぼ漏れなく盛り込んでおり、大乗仏教を体系的に学ぶに適したお経である。古いお経だと思われるが、「法華経」の一乗思想と同じ思想を強調していることから、「法華経」より後に成立したのではないかと推測されている。また、一乗思想の強調と抱き合わせで、声門や独覚などの小乗を厳しく批判しているところは「維摩経」に通じる。「維摩経」は「般若経」と「法華経」の中間に位置すると思われるので、この「勝鬘経」は、「維摩経」が受け継いだ「般若経」の空の思想と、「法華経」の一乗思想とを集大成したものといえよう。

今日に伝わっている「勝鬘経」は「宝積経」の一部であるが、「宝積経」は単一の経典ではなく、「無量寿経」などを含めて雑多な経典の寄せ集めと見られているので、その一部であることには大した意味はないと考えてよい。つまり、それ自体が独立した経典として受け止めてよいということである。

お経のタイトルとなっている「勝鬘」とは「勝鬘夫人」という宗教心あつき女性の名である。インド中原コーサラ国王の娘で、アヨーディア城主ヤショーミトラに嫁いだシュリーマーラーのことである。その勝鬘夫人が、仏との間に交わした会話を再現したという形をとっている。その会話の中で勝鬘夫人は、仏に励まされながら、大乗仏教についての自分の理解を披露する。その夫人の語り方をお経は「獅子吼」と呼んでいる。「勝鬘経」のサンスクリット語原題は「勝鬘夫人の獅子吼」という意味なのである。

お経は、勝鬘夫人の仏教信仰の決意(十の誓いと三つの願い)を述べた後、接受正法の意義、一乗の教えの核心としての無明住地、四諦のうち苦滅諦こそが根源となること、人には如来になるための働き如来蔵が備わっていること、など大乗仏教の基本的な思想が展開される。

このお経を読むについては、高崎直道の現代日本語訳をテクストに用いた。このお経は偈の部分がほとんどなく、また法華経のような文学的な比喩もなく、本来きわめて散文的に出来ているようだが、それが現代日本語の散文で読むと、お経を読んでいるというより、思想的な大論文を読んでいるような気がする。

アヨーディア城主の妻勝鬘夫人は、コーサラに住む両親からの手紙に従い、仏に会いたいと望んだ。その思いを心に念じるや、仏が姿をあらわされ、空中にとどまった。仏は、勝鬘夫人の熱い信仰心をよみされ、このうえない悟りを得るだろうと予言され、夫人を授記された。そして二万アサンキャ却を経て普光という名の如来となり、その仏国土に住する者はみな大乗の教えに安立するであろうといわれた。その授記に感謝して、夫人は十の誓いと三つの願いを述べた。

まず、十の誓いとは次のようなものである。
①いましめを逸脱するような心を決しておこさない
②師長を尊敬しないような心を決しておこさない
③生きものに対し、怒りの心や害心を決しておこさない
④他人の幸いや福祉に対する羨望の念を決しておこさない
⑤いささかも吝嗇の心をおこさない
⑥享楽のために財産を蓄えることはしない
⑦布施、愛語、利行、同事という四つの基本的利他行によって人々に尽くし、自分のために他人に益をほどこすことはしない
⑧身寄りのないもの等の弱者に対して救恤せずには一歩も退かない
⑨こらしむべきものを折伏し、さとし導くべきものを接受する
⑩真実の教えを堅持し、それを忘れるような心を決しておこさない

三つの願いとは次のようなものである。
①いつの世にも、真実の教えを理解することができますように
②その真実の教えを人々に向かって教えときましょう
③身命を顧みず、真実の教えを護持し、受け入れることを望みます

勝鬘夫人の決意を仏が褒めると、夫人はいよいよ力づけられて、仏教についての自分の理解を説明するために獅子吼するのだった。最初は、三つの願いに込められた真実の教えについて。その教えを受け入れ堅持することを「接受正法」という。勝鬘経の教えの本体は、この「接受正法」の説明から始まるのである。

「接受正法」とは「真実の教えをしっかりと身につける」ことである。それは仏の持っておられるすべての特性を完成することであって、大乗の道を完成する根源となるものである。その結果、「無限の大宝蔵」と呼ばれるような宝を得ることができる。

「真実の教えを身につける」ことは、どのようにしてもたらされるか。それは六波羅蜜の実践を通じてである。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍耐、精進、禅定、智慧についての完全なる修行のことである。釈迦の初転法輪に、四諦と悟りを得るための修行が述べられていたが、その修行の中身というのが六波羅蜜と呼ばれるものであった。勝鬘経はその六波羅蜜を、悟りを得るための修行として改めて位置づけているわけである。「六つの究極・完全なる実践行と、真実の教えをしっかり身につけることは、別のことではございません」とお経は言うのである。

その修行を完成させて、真実の教えをしっかりと身につけるためには、もう一つ別の心得がある。それは、男であれ、女であれ、身体・生命・財産を投げ出して修行に専念するということである。有限な身体を投げ出すことによって、無限の仏身を獲得し、かりそめの生命を投げ出すことによって、輪廻の世界を脱し、財産を投げ出すことによって、一切衆生の供養を受けるに価する者になるであろう。

以上は、真実の教えについての形式的な説明であった。それの実質的な内容については、以後順次、夫人の獅子吼を通じて明らかにされていく。





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