勝鬘経を読むその四:如来蔵

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小乗に比較した大乗の最大の特徴は、あらゆる人に仏になる素質があると考えることだ。小乗では、一部のエリートが凡俗から逸脱して僧侶団体を作り、そこで修行に専念することでさとりの境地に達すると考える。しかしそのさとりは、あくまでも人間としてのさとりである。そのさとりの境地に達した人を阿羅漢というが、阿羅漢は仏とは異なる。あくまでも人間の延長である。ところが大乗では、凡俗は人間であることを脱して仏になれると考える。仏教のいう仏とは、基本的には抽象的な原理なのだが、それはさておいて、凡俗が仏になれるというのは、仏教にとっての激烈な転換であったといえる。その転換を大乗仏教が実現したわけである。

凡俗が仏になる素質を持っているのは、人間のなかに仏性が備わっているからである。その仏性を如来蔵という。如来蔵という言葉は、如来すなわち仏の本質である法身が人間のなかに備えられているという意味を表す。

この如来蔵が顕現することで人は仏になる、つまり成仏することができる。しかしなかなかそうならないのは、如来蔵がさまざまな煩悩によって纏いつかれているからである。その煩悩が苦をもたらす。その苦が人間を、この世に生きにくくさせるのである。だから人間が目指すべきは、こうした煩悩をすべて振り払い、滅却して、如来蔵をそのままに顕現させることである。そうすることで人は、あらゆる苦とその原因たる煩悩から解放されて、如来蔵に内在する仏性を顕現することができる。それがさとりの境地である。

このように如来蔵は、すべての人間に備わっている。かれら人間は、その如来蔵を顕現させることで成仏でき、したがって輪廻から脱却することができる。逆に言うと、如来像が顕現しない限り、いつまでも輪廻から脱却することができない。人は現世において死んでも、それは輪廻からの解放を意味せず、また別の生を生きなければならない。そのようにしていつまでも生滅を繰り返す。それが輪廻転生という言葉の意味である。

ということは、人は輪廻に捕らわれている限り、如来蔵を持ち続けるということになる。輪廻から解放されたときにはじめて、存在から脱却できるのであるから、如来蔵もその時には必要でなくなる。ところが存在している限りは、如来蔵を持ち続けるのである。それゆえ、「如来蔵とは、法身が煩悩の纏いからまだ脱却していない状態というのだ」と言われるのである。逆に言えば、煩悩の纏いこそが、存在の根拠ということになる。存在とは煩悩と別の義ではない。存在することそのものが煩悩ということになる。

このようにいうと、如来蔵とは存在者の実体、人間で言えばアートマ=自我に相当するものと思われがちだ。しかし如来蔵はそのような実体ではない。そのように考える人は、「前に述べたような転倒した見方でけがされている人々、ないしは、仏教の説く<空>の原理について心が混乱し、誤解している人々」なのである。如来蔵とは、「真実の教えを生み出す根源、如来の法身そのもの、世間的価値を超越した存在、本性として清浄な存在」なのである。

この本性として清浄な存在が煩悩にけがされるというのは、なかなか了解しにくいし、難解だという。しかし、一切の煩悩を振り払い、如来蔵をその本来の形、すなわち仏性のままに顕現させることで、人はさとりの境地に至るのである。これは信仰の問題なので、そう信じるほかはないということか。

いずれにしても如来蔵は、人間を含めたあらゆる存在者に本来的に備わっているものとされる。その如来蔵は文字どおり仏の法身と異なるものではない。だからこそ人間は自ら仏になる可能性を持っているのである。

こうしてみれば、如来蔵は通俗的なアートマン=自我とは違うものだとされながら、実際には、生きものの存在の根拠であることには変わりないようである。如来蔵はそれが顕現して輪廻からの脱却が実現したときにはじめて存在することをやめる。輪廻からの脱却は存在からの超脱を意味するからである。それを逆に言えば、存在者が存在しているかぎり、如来蔵もまた存在し続けるということになる。如来蔵は存在の根拠だからだ。

このような如来蔵の見方は、唯識説のいう阿頼耶識と似たところがある。阿頼耶識はあくまでも人間の心の構造に即した概念であり、その意味では精神的な原理であるが、その精神的な原理が存在の根拠とされるところは、如来蔵と似ていなくもない。阿頼耶識は輪廻が続く限り存在しつづけ、その阿頼耶識がもととなってさまざまな存在者の形が生まれるといわれる。それと同じように、如来蔵も輪廻が続く限り存在し続け、その如来像がさまざまな存在者に受け継がれるということになる。阿頼耶識も如来蔵も、存在の卵のような役割を想定されているわけである。

以上、勝鬘夫人による大乗の教えのエッセンスの提示を釈迦は褒め称える。「そなたは、以前に多くのほとけを供養したおかげで、今のような立派な解説をしたが、これにまさる素晴らしいことはない」と言って褒めるのである。

その後釈迦は、祇園精舎に戻っていき、それを見送った勝鬘夫人は、自分の周りの人々を大乗の教えに勧進した。一方釈迦は、神々の王帝釈天やアーナンダをはじめとした弟子たちに、勝鬘夫人の説いたことを経としてさずけた。その際に釈迦はこの経を「如来の無限の特性の賞賛」と名づけた。また、「不可思議なる大誓約」とも、「すべての願いを包含する大願」とも、「不可思議なる、真実の教えを接受することの教示」とも、「一乗の教えに入ることの教示」とも、「聖なる真理の教示」とも、「法身の説示」等々とも呼んだ。






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