寺尾隆吉「ラテンアメリカ文学入門」

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寺尾隆吉「ラテンアメリカ文学入門」(中公新書)は、木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」と並んで、ラテンアメリカ文学への手ごろな入門書である。寺尾の本の五年後に出た。木村は膨大な数のラテンアメリカ文学作品を日本語に翻訳しているが、寺尾もまたかなりの規模の翻訳を行っている。そんなこともあって、両者とも、作品の詳細についてすみずみまで読み込みながら、かゆいところに手の届くような解説をする一方、ラテンアメリカ文学の特徴を俯瞰するような視点も見せてくれる。

木村は、1930年代から80年代へかけての半世紀の期間をカバーしていたが、寺尾は20世紀初頭から21世紀へのつなぎ目までのほぼ一世紀を対象としている。だが、1930年代から80年代へかけての半世紀がラテンアメリカ文学の最盛期であるという認識はかわりがないようだ。その最盛期を用意した準備期間と、最盛期が終わって次の時代を展望する期間とを足したという体裁になっている。

二人とも、ガルシア=マルケスをラテン文学を代表する象徴的な作家と見ている。ガルシア=マルケスが活躍した1960年代半ば以降をラテンアメリカ文学の絶頂期ととらえ、それ以前それ以後という具合に時代区分をしている。

木村は、十人の作家をほぼ同じようなウェイトで扱っており、しかも相互の間の影響関係についてはあまり踏み込んでいなかった。ガルシア=マルケスの作風を、ノーベル賞の授賞理由が「マジックリアリズム」と表現したことを踏まえ、もしラテンアメリカ文学を、最小公倍数でくくるとしたら、マジックリアリズムの文学ということになろうと考えている。

寺尾はもうすこし丁寧に作家たちを分類している。木村が言うようにすべての作家がマジックリアリズムというわけではない。それでも、ラテンアメリカ文学の作家たちは、多かれ少なかれそれを感じさせるものを持っている。ラテンアメリカ文学ほど、土地のイメージが文学の内容を強く規定しているものはない。それがいわゆるマジックリアリズム的というのである。だから読者のほとんどは、そういうものを期待して本を手にする。その範疇からはみ出したものは、なかなか評価されない。読者が求めているのはあくまでもマジックリアリズム的なものであって、それ以外ではない。そんなものはなにもラテン文学でなくても、いくらでも手に入るからだ。

ラテンアメリカ文学の前史について、寺尾はそれなりに触れているが、要するにラテンアメリカの歴史をふまえた作品が多かったということのようだ。いわゆるラテンアメリカ文学が本格的に歩みだすについては、三人の作家が大きな役割を果たした。ボルヘス、カルペンティエル、アストゥリアスである。その見方は二人とも同じである。木村はボルヘスを筆頭に置き、そのボルヘスが、ラテンアメリカ文学の特徴であるマジックリアリズムの先駆者となったという見方をしている。マジックリアリズムとしてのラテンアメリカ文学は、ボルヘスに始まりガルシア=マルケスで頂点に達したというわけである。その見方に対して寺尾は、もうすこし丁寧な分類をする。本来マジックリアリズムというべき作風はアストゥリアスのものであり、ボルヘスはアルゼンチン幻想文学、カルペンティエルはメキシコのアイデンティティ探求文学の流として分類すべきだというのだ。この三つの流れにそってさまざまな作家が仕事をし、それがガルシア=マルケスによって集大成されて、世界中にラテンアメリカ文学の意義を認めさせたということになる。

ガルシア=マルケスが「百年の孤独」を出版したのは1967年のこと。この作品によってラテンアメリカ文学という範疇が確固なものとして確立した。要するにブランドになったわけである。以後ラテンアメリカの作家たちは、このブランドのもとに結集した。キューバ革命の成功が、ラテンアメリカの独自性を世界に認識させていたこともあって、ラテンアメリカという言葉に、独特のオーラがあったのだと思う。

キューバ革命はラテンアメリカの作家たちのほとんどを結束させた。なかにはキューバ革命に批判的な作家もいたが、大部分の作家はキューバ革命を支持した。ラテンアメリカ文学は、政治に深くコミットするという姿勢を強く示したのである。

ところが、カストロ政権による政治的弾圧が文学者にも及んでくると、キューバ革命に否定的な文学者も出てきた。その筆頭はバルガス=ジョサであり、支持者の中心にはガルシア=マルケスがいた。ガルシア=マルケスとバルガス=ジョサは仲のよい友人同士だったのだが、キューバ革命の評価を巡って対立し、バルガス=ジョサがガルシア=マルケスを殴り倒すという事態に発展した。以後ラテンアメリカ文学の作家たちは分裂・四散し、それぞれ独自の道を歩むようになった。

寺尾は、ガルシア=マルケスによってラテンアメリカ文学は絶頂に達し、以後は下り坂にさしかかっていると認識しているようだ。ガルシア=マルケス以後の作家として木村はイサベル・アジェンデを高く評価し、新しい時代のラテンアメリカ文学の可能性を期待できると言っているが、寺尾はアジェンデには否定的だ。「精霊たちの家」などは大衆目当ての凡作だと見ている。

これに限らず、個々の作品の評価については、二人にはかなりな相違がある。木村が高く評価する「大統領閣下」を寺尾は駄作扱いだし、その寺尾がバルガス=ジョサの代表作として「都会の犬ども」をあげるのに対して、木村は「緑の家」をあげている。おそらく趣味の相違が反映しているのだと思う。二人ともマルケスの「百年の孤独」がラテンアメリカ文学最高傑作だと見ることでは一致している。

ともあれ、ラテンアメリカ文学というのは、非ヨーロッパ社会で最初の世界文学であり、またヨーロッパ社会の延長としては最後の世界文学と言えるであろう。






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