あらくれ:成瀬巳喜男の映画

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成瀬巳喜男の1957年の映画「あらくれ」は、徳田秋声の同名の小説を映画化したもの。この小説は日本の自然主義文学の最高傑作というべき作品だ。秋声は日本の女たちの生き様を描くことにこだわった。その生きざまは、男社会に足蹴にされながらも、それに屈従するのではなく、自分の考えを率直に主張し、要するに自分に忠実に生きるというものである。秋声は、日本の近代化にともなって男尊女卑の傾向が強まる中で、必死に自己を主張する女たちに暖かい視線を注いだ作家だ。その秋声の描いた女たちのなかでも、「あれくれ」のお島はもっとも輝いている。成瀬の他の映画に出てくる女たちとはだいぶ違っている。

そのお島を高峰秀子が演じている。高峰は子役の頃から成瀬の映画に出ており、なにかと成瀬の映画には欠かせない存在だった。戦後、成熟した女として、「稲妻」や「浮雲」といった成瀬の主要な作品に出演し、芸域を広げてきたのだったが、この「あらくれ」の中のお島役は、彼女の演技の一つの頂点をなすものではないか。高峰は、随筆からも伝わってくる通り、自尊心が高く、自己主張の強い女性である。その生の性格を、この映画の中で如何なく発揮している。男に立ち向かうときの毅然とした表情、粋のよいせりふ回し。とても他の女優には期待できないような資質を、この映画の中の高峰は感じさせる。とくに巻き舌で畳みかけるところなどは、生粋の下町育ちを思わせるが、実際に生まれたのは北海道で、五歳のころから叔母の養女として東京で暮らしたそうだ。先輩の大女優である杉村春子や田中絹代が強いなまりを感じさせるのとは違い、高峰のせりふ回しは、非常に粋である。

原作は勝気な女の男遍歴をテーマとしている。くだらない男や女房持ちの男とくっついたり離れたりしながら、けなげに生きていく女が描かれている。その原作の内容を、多少脚色しながら、ほぼ同じような雰囲気が出るように作ってある。男遍歴の結果、女が成長するわけではなく、同じような境遇をぐるぐる回っているだけなのだが、それでも自分に忠実なだけ、女には生きている実感がある。もし男の言いなりになるまま生きていたら、それはつまらない人生になるだろう。どんな境遇でも、自分の意志でそれを生き抜けば、それなりの充実感を得ることができる。要は自分自身を失わないことだ。

映画の中では、お島と三人の男達とのもつれあいが描かれる。上原謙演じる最初の男は、高峰の勝気なところが気に食わず、夫婦喧嘩の挙句階段から女房を突き落として妊娠中のところを流産させてしまう。そんな仕打にお島は泣き寝入りしない。尻をまくって出ていくのだ。

森雅之演じる二人目の男は、女中と旦那との関係だったが、やがて深い仲になる。しかし旦那の女房が入院先から戻ってくるのを潮時に、お島は追い出されてしまう。それでもお島はその旦那に恋心を抱き続ける。この映画の中のお島は、その旦那を心から愛しているように描かれているのだ。しかし旦那は死んでしまう。死なれたお島は心の中に大きな穴があいたように感じる。

加藤大介演じる三人目の男は、裁縫の腕があることから、その腕を生かして二人で洋服屋を営む。さんざん苦労した挙句、店の経営は軌道に乗りかけたが、男はろくでもない女好きで他の女とねんごろになる。それを自分に対する侮辱と受け止めたお島は、妾の家までおしかけていって、相手の女をこっぴどくやっつけるのである。

こんな具合に、時には惚れた男を大事にかわいがり、自分をコケにした男には厳しくあたる、というのがお島の生き方である。そういう生き方は、成瀬の生きた時代には、潔い生き方と思われていたし、実際にそういう生き方をした女たちもいたのである。それを秋声が小説に、成瀬が映画化したというわけであろう。

とにかくお島の生き方を支えているのは自尊の感情である。その自尊心があるために、お島は「妾にはなりたくない」と繰り返し言うのである。妾になるくらいなら、どんな貧乏も受け入れる。そんな潔さが、高峰の演技から伝わってくる。こんな演技ができる女優は、そうざらにいるものではない。





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