華厳経を読むその三:菩薩の浄行と功徳

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「十種の甚深」が説かれた後、第七章「浄行品」では菩薩のなすべき修行が述べられ、ついで第八章「賢首菩薩品」で修行のもたらす功徳について説かれる。「浄行」とは菩薩のなすべき修行のことをさし、それは清浄で、ものに動じない身口意の三業を得ることだと説かれる。身口意とは身体、言葉、意思、つまり人間の働きのすべてをいう。その三業を清浄で、ものに動じないものとするのが「浄行」のとりあえずの目的である。究極の目的は、衆生の救済ということにある。

三業を成就するために必要なこととして、さまざまな事柄が述べられる。最初は、因縁空の体得。因縁空とは、あらゆるものは因縁にしたがっているから、なにも執着するものはないとする考えである。般若経の空の思想を述べたものである。以下、菩薩の心掛けるべき、あるいは願うべきことがらが、数十項目にわたって述べられる。それらの多くは、きわめて卑近なことである。たとえば、剃髪するときは煩悩をもそりおとして寂滅の世界に到達しようとか、大小便をもよおすときはすべてのけがれをのぞき、むさぼり、いかり、愚痴の三毒を捨てよう、といったものである。一方、夕の眠りにつくときはすべてのはたらきをやめ、心の動乱を鎮めようとか、朝に目覚めるときはすべてに心をくばり、十方をかえりみようといった精神の状態にかかわることがらもある。

第七章に対応する形で、第八章では菩薩の「浄行」の功徳について説かれる。文殊菩薩が賢首菩薩に向かって「わたしはすでにボサツの清浄の行を説き終わった。どうかあなたはボサツの広大な功徳の意味をお説きください」と問いかけると、それに賢首菩薩が答えるという形をとる。

賢首菩薩は、これから自分が説くところは、功徳のほんの一部、大海の一滴のようなものだと断りながら、功徳の内容について語る。その前に、菩提心と仏への信心について触れる。菩提心とはさとりを目指す心であり、信心とは文字通り、仏によって救われることを疑わず信じることである。

功徳の具体的な内容については、「風が吹けば桶屋がもうかる」式の因果の連鎖という形で説かれていく。最初は大悲心、ついで慢心や怠惰を離れること、うれいがなく努力精進すること、もろもろの神通を得て衆生の生活を知ること、等々である。その挙句に、衆生をことごとく解脱せしめるに至る。そのようにして、「ボサツの大行によって、正法はつねに安住し、とこしえに不滅となるであろう。その力は、大海のように広大であり、また金剛のように堅固である」と説かれる。

ボサツはまた、「一念のあいだに十方世界にあらわれ、十方世界の中で念々に仏道を実現して涅槃に至る」とも説かれる。このように「ボサツが十方世界にあらわれて、あますところなきは、海印三昧の力のためである・・・このように、すべてに自由自在にして不可思議であるのは、華厳三昧の力のためである」。海印三昧とは、風がやんで海面が静かになり、それがすべてのものを写し出す鏡となる状態をさし、華厳三昧とは、厳粛で荘重な様子をさす。

ともあれ、ボサツは衆生を救うために三昧に入り、大光明を放つ。その光明は、歓喜、愛業、慧灯、無慳、忍荘厳、寂静、見仏、法清浄などのさまざまな光を帯びる。これらの光明はそれぞれ無量であり、無辺である。そして、「もし、無量の功徳をおさめ、無数の仏をうやまい供養し、こころつねに無上の仏道をねがい求めるものは、このような光明に出会うであろう」という。

以上、第七章と第八章は、ボサツのなすべき「浄行」とそれによってもたらされる功徳について説いたものである。「浄行」の目的は衆生の救済であり、またその功徳もやはり衆生の救済である。目的となりまたそれが実現されたもの、その両者が衆生の救済という点において結びつく。そのあたりのお経の構成は、「法華経」と並んで、大乗経典の華というべき「華厳経」の骨格といえる思想を反映している。

第八章の最後の部分は、賢首菩薩の説法に満足した無数の仏が、ボサツの頭をなでながらほめたたえるところで終わっている。一切の如来は言うのだ。「よいかな、よいかな、真の仏子よ、あなたは、大乗の法をさわやかに説き終わった。わたしは、あなたとともに心から楽しもう」と。人の頭をなでることは、インドでは最高の敬愛を表現したものらしい。

この言葉には、仏の目的も衆生を救うことにあり、その目的をボサツが共有していることへの満足の気持ちが含まれている。大乗の教えの根幹は、衆生の救済、すなわち衆生を涅槃に導くことなのである。






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