アメリカのラテン・アメリカ支配:百年の孤独

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「百年の孤独」の後半部分は、ホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリアノ・セグンドの双子の兄弟を中心に展開していく。ハイライトとなるのは、ホセ・アルカディオ・セグンドがバナナ会社の労働者のストを扇動し、そのストが官憲によって粉砕されるところを描いた部分である。バナナ会社はアメリカ資本であり、その苛酷な搾取に怒った労働者がストに訴えると、官憲が、アメリカ資本を守るために国民を虐殺するという構図は、19世紀におけるアメリカ資本のラテンアメリカ支配に共通したものである。その構図にガルシア=マルケスは怒りを覚え、ホセ・アルカディオ・セグンドを反アメリカ資本の闘いの英雄にしたのであろう。

マコンドは創設以来外部世界との交渉がほとんどなく、孤立した部落といってよかった。時折ジプシーの流れ者がやってくる程度だった。それが外界とつながったのは、鉄道が敷かれたからだった。鉄道が敷かれたのは、アウレリアノ大佐の息子たちの努力の結果ということになっているが、究極的にはラテン・アメリカ開発の波が、マコンドにも押し寄せてきたということだろう。その開発を担ったのはアメリカ資本である。アメリカ資本はまず、鉄道で村々を結び、そこに進出していって、交易を広げたり、工場を建てたりした。マコンドでもまず、ミスター・ハーバートのような人間がやってきて、マコンドの住民に対してアメリカ文化を与え、マコンドの住民がアメリカ文化になれる頃には、ブラウン氏のような産業資本家がやってきて、現地の住民を安い賃金で雇用し、かれらの労働力を露骨に搾取することで、巨額の利益を得るようになった。

そんなアメリカ資本のやり方に腹をたてた労働者たちちがストに立ち上がると、ホセ・アルカディオ・セグンドは、その先頭に立った。しかし、ストは無残にうちやぶられた。大勢の犠牲者を出しながらである。ガルシア=マルケスの筆は、アメリカ資本と手を組んだ官憲が、自国民である労働者たちを虐殺する様子を、迫力をもって描いている。

三千人もの人々が、抗議のために駅前に集合しているところに向かって、官憲が機関銃で一斉射撃をした。その様子は、「律儀な機関銃弾によって、玉葱の皮でもむくように、縁から綺麗に刈り込まれて」いくように見えた。その機関銃弾の雨の中で、ホセ・アルカディオ・セグンドも倒れた。かれは一人の子供を助けようとして。その子を地面に下ろしたときに、顔中血だらけになって、その場にくずおれたのである。

意識を取り戻したとき、ホセ・アルカディオ・セグンドは列車の中に横たわっていた。そして自分が死体の上に横たわっているのに気づいた。なんとか列車から脱出したかれは、その列車が二百両もの貨車からなっており、そこにはすくなくとも三千の死体が積み込まれていると確信した。

ホセ・アルカディオ・セグンドは、自分が体験した一部始終をさまざまな人に語った。だが誰一人、耳を貸すものはなかった。政府によって、そんなことは起らなかったという布告が流されていたからである。その布告に異を唱えることは、命をかけることだということを、みな知っているのである。「死人なんて出ていませんよ」とかれらは言うのだった。「労務者らは駅前を退去せよという命令に服従して、おとなしく我が家へ帰った」というのだ。結局「マコンドでは何事も起こらなかった。現在もそうだし、将来もそうだろう。まったく平和そのものだ、この町は」。こんなわけでストライキは蹴散らされ、組合の指導者は完全に抹殺されたのである。

だが、不思議なことが起った。ホセ・アルカディオ・セグンドが、ウルスラの家に保護を求めたとき、かれを追って、政府軍の兵士たちが押しかけてきた。兵士たちは、ホセ・アルカディオ・セグンドの隠れていた部屋まで入ってきて、かれに相対したのだったが、その存在に気付くことはなかった。彼が他人の目には見えないことを了解したウルスラたちは、そのまま彼を家に置いておくことにした。以来ホセ・アルカディオ・セグンドは、高齢でこの世を退去するまで、その部屋の中に住み続けたのだった。かれは、弟のアウレリアノ・セグンドと手を携えあうように、一緒にこの世から退去したのである。

ホセ・アルカディオ・セグンドが世の中の不正に立ち向かったのは、おそらく大叔父であるアウレリアノ大佐の血がかれにも伝わっていたからだろう。そのことを、曾祖母のウルスラは気づいていた。ブエンディア家にはろくでもない血が流れているのだ。そのアウレリアノ大佐の大袈裟な行動を、ホセ・アルカディオ・セグンドは批判的な目で回顧した。かれは「アウレリアノ大佐は道化か阿呆か、そのどちらかでしかなかったという結論に達した。戦争がどういうものか説明するのに、なぜあれほどの言葉を費やす必要があったのか、理解に苦しんだ。恐怖、この一言で足りるはずだった」。それほど強い恐怖をかれは覚えたということだろう。そこは、恐怖知らずだったアウレリアノ大佐とは違うところだ。

ともあれ、ホセ・アルカディオ・セグンドの戦いは、外国であるアメリカの資本の横暴に対する反抗という点で、同国人同士の内戦にあけくれたアウレリアノ大佐の闘いとは違っている。アウレリアノ大佐の戦いは、基本的には、軍閥同士の抗争に過ぎないが、ホセ・アルカディオ・セグンドの闘いは、ナショナリズムの理念を背負っている。外国人の横暴から同胞たちを開放する、というのがかれの政治的な意義づけだったのだ。

そのホセ・アルカディオ・セグンドのナショナリズムにも、カストロの影を見ることができる。カストロは社会主義革命を目指したということにされているが、そもそもは、アメリカ資本の横暴から国民を開放することを目的としていた。それが行きがかり上大規模な運動になり、しかもアメリカを叩き出すことに成功するに及び、キューバ人だけのパラダイスを実現しようとして、社会主義に傾いていった、というのが実際のところである。

そのカストロに追い出されたアメリカの資本家たちは、折あらばカストロを打倒して昔の利権を取り戻そうと企んだのだったが、この小説の中のアメリカ資本家で、バナナ工場の経営者であるブラウン氏は、物騒なマコンドを見捨てて、もっと安全なところで優雅な暮らしを楽しんだということになっている。






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