白井聡「未完のレーニン」を読む

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いまどき社会主義革命を論じること自体時代遅れと言われているのに、その社会主義革命の権化ともいうべきレーニンを正面から論じることにはかなりの勇気がいるだろう。なにしろ、1990年代以降、ソ連や東欧の社会主義体制が崩壊し、資本主義が唯一の社会モデルと強調されるようになって、社会主義は失敗したモデルであり、いかなる意味でも有効性を持たないと言われている。社会主義を目標としたり、社会主義者としてのマルクスを研究したりすることにうさん臭さを指摘する人間が跋扈している。そういう風潮の中で、マルクスを超えてレーニンを主題的に問題にすること自体、スキャンダラスにとられかねない。そのスキャンダラスなことに、白井聡は取り組んだのである。

白井がこの本を書いたのは、中沢新一の「はじまりのレーニン」に触発されてのことだと白井自身が言っている。白井は中沢のその本を「驚くべき書物」と読んでいるが、たしかにいまどきレーニンを賛美するようことは「驚くべき」行為と言うべきだろう。中沢はレーニンを革命家というよりは、ユニークな思想家として位置付けていた。レーニンのユニークなところは、グノーシス主義とか東方的三位一体といった概念を駆使して、東方的な思想を展開したことにある、と中沢は見た。つまりレーニンをユニークな思想家として見ていたわけで、革命家としてのレーニンについては二義的な扱いしかしていない。ところが白井のこの本は、レーニンをあくまでもロシア革命の指導者としてとらえ、かれがいかにして革命を成功させることができたか、その道筋を探ろうとする。そうすることで、レーニンの示した教訓を、来るべき未来の革命に役立てることができると考えている。そういう意味ではこの本は、レーニンについての史伝でもなければ、単なる理論的研究でもない。来るべき革命についての実践的な指南書なのである。そこにこの本の「驚くべき」意義がある。

白井は、「何をなすべきか」と「国家と革命」をテクストに選んで、それらを読み解くことで、レーニンの革命論および革命的実践の意義を考察している。前者からは、革命的前衛の果たすべき役割が摘出され、後者からは革命が成功すべき条件が考察される。白井はレーニンとともに、資本主義はやがて行き詰って終わりを告げると考えており、その終わりを告げるべき主体としてのプロレタリアートの意義及び革命的前衛の果たすべき役割について考察する。それを読むと白井が、資本主義の否定としてのプロレタリアート革命の必然性を強く信じていることが伝わってくる。無論そんなに簡単に革命が成功するとは考えておらず、さまざまな条件が重なる必要があるとは言っている。しかし資本主義の終わりは歴史の必然的な傾向なのであり、それを終わらせる主体が階級としてのプロレタリアートであるという強い信念をもっている。いまどきそんな信念を持ったものは、嘲笑の対象となるばかりだと思うが、白井はそんな嘲笑を屁とも思わないらしい。

この本を読んでいて気になるのは、白井がロシア革命を基本的にはプロレタリートによる革命だったと考えていることだ。そう考えるためには、、当時のロシアが発達した資本主義社会だったと仮定しなければならないし、したがってプロレタリアートが階級として成熟していたと考えなければならない。実際には、当時のロシアは発達した資本主義の段階には至っていなかったし、したがってプロレタリアートも自立した階級としては形成されていなかったというべきである。そういう社会で革命が成功したのは、プロレタリアートによるブルジョワジー打倒のための革命だったのではなく、ツァーリの専制政治に対する広範な民衆の反乱だったと捉えたほうが正確である。ロシア革命は、第一次世界大戦が生んだものといってよい。その大戦を戦うために、ツァーリが民衆を大量動員した。しかしナショナリズムが未熟であった当時のロシア社会においては、ツァーリによる徴兵は、専制政治を守るためと受け取られ、広範な民衆の反感を招いた。その反感を軍隊も共有した。ツァーリが徴兵した軍隊は、民衆を供給源としていたのであり、その民衆の大部分は農民階級が占めていた。この民衆と民衆を母体とするブロックが共同してツァーリの専制権力に立ち向かったというのが、歴史の真相というべきである。そのブロックの動きをレーニンは巧妙に活用し、そうすることで内乱を革命へと発展させたというのが穏当な見方であろう。

そうだとすれば、白井によるレーニンの評価はかなり歴史の実態とずれているところがある。ロシア革命が、白井の言うようなプロレタリアートによる社会主義革命ではなく、農民を主体とした広範な民衆によるツァーリの専制への反抗だったとすれば、その結果生じた権力は、プロレタリアートが主体となった社会主義的権力ではなく、開発独裁型の権力に近かったのではないか。

いずれにしても、レーニンが民衆の力を巧みに操って、独特のロシア型革命を成功させたことは間違いない。そういう意味では、今後の革命にとっての一つの有力な手掛かりを示したものと受け取ることができる。なお、白井がこの本のタイトルを「未完のレーニン」としたのは、レーニンが始めた革命が、その後一とん挫したために、完成されていないという意味を込めたものであろう。完成されていたいものは完成すべく努力するということになるが、果たしていまのロシアには、レーニンの始めた革命を最後までやり抜く覚悟があるだろうか。むしろ、欧米の発展した資本主義国家における革命の可能性を論じたほうが生産的なのではないか。






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