フロイトの戦争論

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フロイトは1932年に、高名な物理学者で同じユダヤ人であるアインシュタインと書簡のやりとりをした。それは、国際連盟の一機関が企画したもので、まずアインシュタインがフロイト宛てに書簡を送り、フロイトがそれに応えるという形をとった。フロイトのほうが23歳も年上だったし、また、往復書簡のテーマについて深い見識を持っていると考えられたからであろう。そんなフロイトに後輩のアインシュタインが見解を乞うという形になっている。それに対するフロイトの返事は、「何故の戦争か」と題して著作集に収められている。

往復書簡のテーマは戦争である。アインシュタインは、「人間を戦争の悲運から救い出す方法があるでしょうか」という問いから始める。アインシュタインには、彼なりの考えがあって、諸国家が互いの紛争を調停するための超国家的な機関を共同でつくり、その裁定に従うという制度が確立されれば、国家間の紛争としての戦争は回避できるかもしれない。しかし現状を見ると、「その判決執行に対して国家の絶対服従を強制することのできるような超国家的機構をもつには、はるかにほど遠い状態」にある。そこでアインシュタインは、もしそうだとしても、「人間の精神的発達を、憎悪や殺戮という精神病に対して抵抗力をもつに至るまで、推し進める可能性があるものでしょうか」と問いかける。その問いは、フロイトが人間の精神について深い知見をもっているという信頼に基づいているのであろう(以上引用は「何故の戦争か」吉田正巳訳から、以下同じ)。

アインシュタインがこのような問いを投げかけたのは、ヨーロッパの現状についての強い危機感によるのであろう。ヨーロッパは第一次世界大戦という形で、未曽有の憎悪や殺戮を体験した。その経験は国際連盟のような国際的な調停機関を生んだわけだが、国際連盟の力は弱く、その一方で再度の戦争が起きる可能性がなくならないばなりか、強まっているようにも見える。そんな状況を前にアインシュタインは、どうしたら戦争を回避できるか、という問題意識から、フロイトに向かって上述のような問いかけをしたのだと思う。

アインシュタインからの問いかけに対して、フロイトは、心理学者としての立場から答える。フロイトの答えをごく簡単に要約すれば、闘いは人間の本性に根差しているので、戦争への衝動は避けられない性質を帯びており、したがって戦争をやめさせるのは非常にむつかしいとしながらも、一抹の希望がないわけでもない、というものだ。

人間は、基本的には本能的な衝動によって動かされている。その衝動には二種類あって、一つは攻撃衝動あるいは破壊衝動、もう一つは愛の衝動である。人間は、この二つの衝動の絡み合いによって動かされているのであるが、この二つの衝動のうち、攻撃衝動のほうが強く働く。その攻撃衝動はさらに、死の衝動に基礎付けられている。戦争はそうした衝動の最大のはけ口になる。したがって戦争をやめさせることは至難のことだ、というのがフロイトの基本的な考えである。そういうわけだから、フロイトがアインシュタインの問いかけに対して否定的な答えを返さざるをえないことには、深い理由があるのだ。

だが、そうかといって、絶望することはない。戦争は悲惨なものであり、人間性を徹底的に破壊する。だから戦争を憎悪することには十分な理由がある。憎悪のほかに戦争を抑止する人間的な傾向も指摘できる。それは人間の理性の働きだ。人間はただ本能によって操られているばかりではない。理性を働かして合理的な行動をしようともする。そういう合理的な傾向が勝れば、戦争を避けようと思う平和主義者も多くなるだろう。じっさい自分自身は平和主義者なのであって、その自分と同じように、ほかの人たちも平和主義者になり、その平和主義者が社会で多数を占めるようになれば、あるいは戦争をやめさせる力になるかもしれない。だから我々は、人間が理性的な存在になるよう努力しなければならない、というのがフロイトの戦争をめぐる議論の帰結のようなものである。

フロイトの言うように、人類の大部分が平和主義者になれば、戦争はなくなるだろう。それはかならずしも、根拠の薄弱な思い込みではない。というのも、「どの人も自分の生命に対する権利をもっているからであり、戦争は、希望に満ちた人間生活を破滅させ、個々の人間を屈辱的な状態に追い込み、彼自身が望みもしないのに、他人を殺害することを彼に強制し、さらに、人間労働の成果である貴重な物質的価値を破壊したり、そのほかさまざまのことをするから」であり、そのようなことに、まともな人間が耐えられるはずがないからである。人間はたしかに原始的な生きものとしては攻撃的にできているが、しかし理性的な存在なのでもあって、その理性が戦争を憎悪させるように働くというわけである。

とはいえ、いますぐ人類の大部分が平和主義者になるという見込みは少ない。当分は、人間の中の攻撃衝動が優位的な状態が続き、したがって人間は互いに闘いあうことをやめないだろうし、また国家間の戦争もやまないだろう。人間が攻撃衝動をコントロールするには、文化の力が個人を服従させるプロセスが必要である。また、国家の戦争への傾向をコントロールするには、精神的な価値が国家を動かす力を持つようになる必要がある。このように踏まえたうえでフロイトは、「文化の発達を促進するものはすべて、戦争反対の作用をもする」と結論付ける。だがそれがいつ有効な働きに結びつくかは明言しない。それほどにはフロイトは、楽天的にはなれないようなのである。

フロイトの戦争をめぐる議論は、要するにかれの人間観の延長にある。人間は本能的あるいは原始的な衝動に駆られながら生きている。そういう状態にあっては、「人間相互間の利害の衝突は、原則的にいえば、暴力を用いることによってけじめがつく」。国家レベルでも同じことが言える、国家間の利害の衝突は、原則的には、暴力をもちいることによってケジメが付くのである。人間の場合には、そうした暴力への衝動をコントロールするのは、共同体の文化的な要請である。共同体は個人をつなぎとめるためにさまざまな工夫をする。その工夫の体系が文化である。その文化が発達するほど、人間の原始的な衝動もコントロールされやすくなる。同じことが国家についても言える。国家の上に超国家的な、つまり世界全体を構成要素とする機関が成立し、その機関が、人類共通の普遍的な文化を体現して個々の国家をコントロールすることができるようになれば、おのずから戦争への傾向も和らげられる。だから、人間は、個人レベルでも、国家レベルでも、超国家レベルでも、文化を発達させねばならない。その文化は人類全体をカバーするような普遍的な理念に裏打ちされていなければならない、というのがフロイトの基本的な展望だったようである。もっともその展望が、すぐに実現されると考えるほど、フロイトはお人よしではなかったのだが。






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