都会と犬ども:バルガス・ジョサの社会派リアリズム小説

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マリオ・バルガス・ジョサは、ガルシア=マルケスと並んで、ラテンアメリカ文学の騎手といわれる作家だ。二人ともノーベル文学賞を貰っている。ガルシア=マルケスはジョサより八年年上だが、出世作を書いたのはジョサのほうが先だった。「百年の孤独」が出版されるのは1967年、「都会と犬ども」が出版されたのはそれ以前の1963年のことだ。ジョサはまだ、二十代だった。

「百年の孤独」は、さまざまな意味でラテンアメリカ文学を代表する作品といってよい。マジック・リアリズムといえば、ラテンアメリカ文学をもっともよく特徴づける定義だが、それを「百年の孤独」ほど体現している作品はない。そういう意味でも、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」は、ラテンアメリカ文学を象徴するような作品である。

一方、バルガス・ジョサの出世作「都会と犬ども」は、徹底したリアリズム小説である。それもペルーという国が抱える矛盾を前面に押し出している点で、社会派リアリズム小説といってよい。マジック・リアリズム的な要素は、「百年の孤独」以前にも、アストゥリアスなどが追求していたものであったが、それがラテンアメリカ文学の特徴として全面的に認知されるのは「百年の孤独」以降のことだ。そんなわけで、ジョサがこの小説「都会と犬ども」を書いたときには、ガルシア=マルケス流のマジック・リアリズムを意識してはいなかったと思われる。かれは、自分の体験したことを、リアルなタッチで書きたかっただけでなはいか。

「都会と犬ども」は、ペルーの士官学校を舞台にした作品だが、これはバルガス・ジョサ自身の体験をもとにしていると言われる。この小説の中で描かれている世界は、子どもの世界とはいえ、大人の世界を圧縮したような、悪徳と暴力に満ちた世界である。子どもというのは、この学校の生徒たちは、13歳から16歳までの男子からなっているからである。ペルーの学制のことは全く知らないが、軍人を養成する学校には、日本の昔の「幼年学校」に相当するようなものがペルーにもあり、そこにバルガス・ジョサも在籍していたことがあるというのであろう。そこでの体験があまりにも非人間的で汚辱に満ちていたので、バルガス・ジョサは大きなショックを受け、そのショックを補償するというような意味で、この小説を書いたということらしい。

だからこの小説の中で書かれていることはみな事実なのだろうと読者は受け取り、また学校側でも、そうした事実を暴露されたことに異常な反感を示した。学校の教員たちがこの小説を焚書処分に付したうえで、作者のバルガス・ジョサを、軍の名誉を損壊した裏切り者として最大限の非難を浴びせたのである。

だが、当然予想されるそうした非難を考慮しながらも、それを書かずにはいられないほど、バルガス・ジョサが受けた心の傷は大きかったようだ。なにしろこの小説に出てくる少年たちは、とても人間の子どもとは思えないほど野蛮な生きものであり、力だけを頼りにしているのである。そういう子どもたちの置かれた情況を、作者は主人公のアルベルトに次のように語らせている。「・・・軍隊では腕っぷしが強くなくちゃやっていかれない。鋼鉄のキンタマを持ってないとだめなんだ。わかるか? 食うか食われるかだよ。それしかない」(杉山晃訳)

そのアルベルトを中心にして、かれが属する士官学校の一クラスのメンバーの生きざまが語られる。時折外界での出来事にも触れられるが、大部分は学校内部での出来事が語られる。メインプロットは、アルベルトと彼の同級生ジャガーとの対立だ。その対立は、二人にとって味わいの悪いいきさつをたどったのだが、その二人の対立を物語の中核として、生徒同士の関係とか、生徒と教師の関係とか、学校内部の階級秩序とかが語られる。

この小説の異様なことろは、士官学校とはいいながら、そもそも戦争がありえないことを前提に作られた学校であり、したがって学校自体にほとんど社会的な意義が認められないにかかわらず、学校当局は無論生徒達も、自分らが軍人養成機関にいるふりをしていることである。ペルーには、そもそも他国に戦争を仕掛ける動機がないので、軍隊は本来無用なのである。その無用な軍隊が軍人養成機関を設け、軍人どもを教師として、子どもたちに軍人教育を施す。だが子どもたちには、自分が将来立派な軍人になりたいという意思はないから、自分の置かれている状況が意味のあるものには見えない。だから、かれらは少年なりにニヒルにならざるを得ない。そのニヒリズムがかれらを衝動的な行動に駆り立てるのである。

子どもの世界はどこでもそんなものだが、とにかく弱肉強食がまかりとおる世界である。日本ではいじめと呼ばれるが、ペルーではそんな生易しい言葉で言えるような状態ではない。先ほどのアルベルトの言葉通り、強いものが弱いものを徹底的に食い物にするのだ。そうした弱肉強食のあり方には、ペルーの特異な人種構成がかかわっているように見える。ペルーには、征服民としての白人を頂点として、黒人、インディオ、そしてメスティーソと呼ばれる混血人種が混在している。学校もそれを反映して、さまざまな人種のるつぼと化しているのである。その中で白人の生徒は、アルベルトとジャガーの二人だけで、あとは別の人種である。しかも、二人の白人はどちらも社会の落ちこぼれとされているから、生徒全体が、ペルー社会の健全な部分を代表しているとはいえない。むしろ落ちこぼれの吹き溜まりのように描かれている。もともと存在意味を持たな施設に、社会の落ちこぼれが寄り集まっている、というような印象なのだ。そんな風に書かれたら、当の学校の関係者は無論、軍人たちが怒り心頭になるのも無理はないといえる。

バルガス・ジョサがアルベルトの視点に立っていることは、小説の語り口から明かであるが、かれのライバルであるジャガーにもそれなりの評価を与えている。ということは、この二人の少年に、自分自身を半分ずつ投影したということなのだろう。アルベルトは、決して豊かとはいえないが、リマの上流社会のはしくれとして描かれており、一方ジャガーのほうは、仲間と一緒に泥棒稼業をしているような少年として描かれている。バルガス・ジョサ自身にも、白人のはしくれとして社会の上層にいるという自覚とともに、実際には貧乏な生活に甘んじたという過去があったらしいから、そうした自分の矛盾した生き方を、小説の中では、二人の少年に分有させたのだと思う。

バルガス・ジョサ自身は、ユダヤ系の家系である。ユダヤ系は、ヨーロッパでは迫害される立場だが、ラテン・アメリカでは白人のはしくれとして、インディオや黒人を見下す立場にある。そうした優越的な立場からする傲慢な視線が、この小説では、白人以外の人種に対する侮蔑的な描き方につながっている。この小説は、ペルーの大多数の人々にとって、けっして面白く読めるものではないのである。

なお、タイトルの「都会と犬ども」は、ペルーの大都会であるリマの一廓で、士官学校の中で犬っころとして扱われた少年たちの物語といったほどの意味である。






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