霊魂の不死と神の存在:カントの実践理性

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「実践理性批判」の目的は、道徳法則を絶対的・先天的な原理によって基礎づけ、その上で霊魂の不死および神の存在といった宗教的な概念に根拠を与えることである。その根拠をカントは最高善に求める。最高善という概念が必然的に霊魂の不死および神の存在を要請するというのである。わかりやすく言うと、最高善という概念には、言葉の定義からして霊魂の不死及び神の存在が含まれているというわけである。

まず、最高善は人間の無限の努力によって初めて到達できるようなものである。したがってそれは有限な人間が実現できるようなものではない。無限の対象は無限の存在者によってしか実現されない。その無限の存在者を人間とすれば、それは不死であるべきである。そこから霊魂の不死という考えが導かれる。ついで、最高善そのものは、すべての善を基礎づけるような本源的な善とされる。そのような本源的な善は、言葉の定義からして神と呼ばれるべきである。

こういう論証の仕方は、神の存在についての「存在論的な証明」と呼ばれるものに似ている。存在論的証明とは、神という言葉の定義には「存在する」ということが含まれているから、論理必然的に神は存在すると言える、また、そう言わねばならない、と主張するものである。

こう言いながらカントは、霊魂の不死とか神の存在といったものが、理論的にすなわち純粋理論理性の働きによって証明されるわけではないとも言っている。それはあくまでも、実践理性の要請としてとらえられる。人間が道徳的に生きることは、霊魂の不死とか神の存在を要請するというのである。要請であるから、それは人間の実践的行動を制約するものであって、人間の理論的な認識を制約するものではない。人間の理性には、理論的な面と実践的な面とがあり、理論的な面が存在するものの認識を目指すのに対して、実践的な面は道徳的に生きるための実践的な原理を養成するのである。霊魂の不死とか神の存在は、そうした実践的な原理としてとらえられる。カントによれば、認識と信仰とは別次元の事柄なのである。

要するにカントは、道徳を最高善によって基礎付けながら、その最高善が霊魂の不死と神の存在を要請すると言っているわけであるが、そう言いながら最高善とは神以外にありえないと言う。だからこれは堂々巡りの議論なのである。神の存在の根拠を最高善に求めながら、その最高善を説明するために神という言葉を使う。つまり、神の存在の根拠を神自身に求めているわけだ。こういうのを形式論理学では論点先取りとか同義反復とかいっているが、カントともあろうものがなぜそんな初歩的なミスを犯すのであろうか。

やはりカントが、神の存在を実践理性の要請ととらえているからだろう。要請は事実とは別次元のことだから、別に形式的な論理破綻があっても気にならない。論理は認識の世界での事柄であり、一方道徳的な要請はある種信仰の世界での事柄である。信仰の世界では知性とは異なった原理が働く。その原理をカントは、事実として人間に与えられた先天的な所与とした。その先天的な所与を、近年の哲学界では、文化的所与とか構造とかいうのであるが、カントの時代にはまだ宗教意識が盛んだったので、神が人間に与えたまうた先天的な条件というふうにとらえたわけである。

そういう意味での先天的な所与は、理論理性の分野でも指摘できる。人間が対象を認識するためには、人間に先天的に備わった枠組をその対象にあてはめる必要がある。それをカントは認識枠組とかカテゴリーとか呼んだわけだが、それと同じようなものが、実践理性の分野でも指摘できる。それが道徳法則であって、その道徳法則は、カテゴリーが純粋に形式的であるのと同じ意味で、形式的である。その形式に具体的な行為を当てはめることで、道徳的な行為となる。

つまりカントにおいては、理論的な部面及び実践的な部面を通じて、現象として生起するものを人間の先天的な枠組みに当てはまることで、個別具体的な認識なり道徳的な行為が成立するという構図になっているわけである。その先天的な枠組みを文化的な構造と言い換えれば、カントの言っていることが、今日の主流の哲学者たちとあまり違わないということがわかる。今日の主流の哲学者たちは、人間の理性的な営みを、基本的には言語によって媒介されたものだと考え、その言語が個別の人間にとっては外在的な所与として与えられた文化的な枠組みととらえる。その文化的枠組みを、ソシュールは構造と呼び、フーコーはエピステーメーと呼びマルクス主義者たちはイデオロギーと呼ぶのである。





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