大塚健洋「大川周明」を読む

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大塚健洋は、大川周明に人間的な魅力を感じているらしい。大川周明は、同じファシストでも北一輝に比べればファンが少ない。いわゆる右翼の間でも大川に共感を示すのはあまりいないのではないか。そんななかで大塚は、数少ない大川ファンとして、大川をもっと公正な視点から評価し、日本の思想史に正しく位置付けたいとの思いから、この本「大川周明」(中公新書)を書いたようである。

そんなわけで、大塚の大川評価にはかなり甘いところがあるが、先日読んだ関岡英之の本「大川周明の大アジア主義」に比べればはるかにましである。史実をきちんと踏まえたうえで、大川の思想のエッセンスをかれなりに要約し、それが日本の思想史上に持つ意義を、かれなりの流儀で評価している。そこには学者としての礼儀がみられる。

といって小生は、大塚の大川評価を評価しているわけではない。大塚の大川評価の基準は、一種のナショナリズムであって、そのナショナリズムの視点から大川のナショナリズムを肯定的に評価している。だから、そうしたナショナリズムの視点をどう受け止めるかによって、大塚の大川評価も左右される体のものである。

大塚は、大川がいまだに正当に評価されないのは、ファシズムというレッテルのためだと言う。ファシズムを肯定的に見る見方は、いまでも全くないといってよく、そのレッテルを貼られた人間は全面的な否定の対象となる。肯定的に評価することは無論、その思想を研究すること自体が徒労の行いと思われている。だがそういう態度では、日本近代の歴史と思想の実態は見えてこない。そんなわけだから、日本の近代を論じる視点としては、ファシズムというレッテルめいた言葉を使うのはやめよう。そうすれば、大川は、従来のようなファシストとしての単純なレッテルに収まるような小さな人間ではなく、度量の広い大きな人間だったことがわかる。そう大塚は言って、近代史の見方の基準となる概念を訂正したいというのである。

ファシズムにかわって大塚が持ちだすのは、「復古革新主義」という言葉である。復古と革新とでは、常識的な言葉の使いからして非常識な組み合わせだが、それを大塚は、大川が代表している日本の国家主義の特徴だとするのである。この言葉は、思想の分類基準として、純粋に学問的な意味合いのものだから、ファシズムという言葉が含んでいる否定的な政治的傾向性は感じさせない。そういう中性的な色合いの言葉を用いながら、大川の思想と行動を分析すれば、単純なファシズム史観には見えなかったことが、見えてくるようになる、というわけであろう。

要するに大塚は、歴史の見方を変えたいと言っているわけで、つまり一種の歴史修正主義を主張しているわけである。ファシズムという言葉を使うと、なにもかも単純化されて、絶対的な悪というイメージばかりが前景化する。それに対して「復古革新主義」という言葉は、政治的なイデオロギー性を感じさせないので、もっと中立的な立場から大川の評価を行うことができる。そんな思惑が、この本からは露骨に伝わってくる。だが、さきほども言ったように、この本は極端に偏ってはいない。いちおう事実はきちんと抑えてあるし、大川が日本の思想史上に持った意義も、大塚なりに説明している。それゆえ、はじめて大川に関する文献を読んだという人にも、一応それなりの情報を与えてくれる本だと言ってよい。

この本を読んでもっとも強く感じるのは、大川がなぜ東京裁判において、28人のA級戦犯中、唯一民間人として裁かれたのか、ということに、納得できる説明がなされていないということである。大塚は、大川こそ日本の軍国主義の最大イデオローグだと英米が見ていたからだと言っているが、それは皮相な見方なのではないか。本当にそう思っていたなら、大川が法廷で見せた狂態を理由に、簡単に訴追免除するようなことはなかったはずだ。東京裁判の被告を特定するにあたっては、英米側は日本人の意見もだいぶ参考にしたようだから、日本人の誰かが大川を陥れたということも考えられないではない。もっともそれは単なる憶測で、具体的な根拠があるわけではない。ひとつ言えることは、英米が大川を無罪放免にしたことは、大川を大した大物とは見ていなかったことのあらわれではないかということだ。

大川の五・一五事件へのかかわりについては、大塚はあまり重視していない。大川は、古賀ら事件の首謀者に利用されただけだというように言っている。だがそれは違うのではないか。大川は、三月事件や十月事件など一連の軍部クーデター計画に深くかかわっており、そのことは大塚も認めている。五・一五事件も、そうしたクーデター計画の一環として行われたのであって、それに大川がかかわっていたことは大塚も認めているところである。大川が古賀らに利用されていたのではなく、大川が軍部内の反体制分子を利用していたと見るべきだろう。

この本は、大川の思想家としての側面を大きく見るあまり、行動家としての大川を過少評価しているところがある。大川は勢力的な活動家であって、その活動ぶりが権力に利用されたりもしたが、その活動が、結果として日本をファシズムに導いたわけだから、やはり大川をファシズムという言葉を用いないで評価することにはあやうい所がある。大塚がファシズムという言葉を大川のレッテル貼りに使うことに反対するのであれば、ファシズムという言葉がなぜ大川にはふさわしくないか、あるいはファシズムという言葉自体が、なぜ歴史の評価基準としてふさわしくないか、その理由を明快に示す必要があろう。





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