新世帯:徳田秋声を読む

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「新世帯(あらじょたいと読む)」は、徳田秋声が自然主義的作風を模索した作品である。かれの作風を確立したとまではいえないが、文章に余計な修飾を加えず、事実を淡々と描くところは、その後の彼の作風の原型をなしたといってよい。小説のテーマも、庶民の平凡な暮らしを、如実に描写するというもので、大袈裟な仕掛けは全くない。また、主人公の視線に沿いながら、時折心理描写を交えつつ、平凡な日常を執拗に描くところなども、いわゆる秋声風を先取りしている。

これを書いたのは秋声三十八歳のときであるが、発表当時の反響は大したものではなかった。中途半端な長さだし、テーマが平凡で、文章も地味とあって、批評家が騒ぐほどの材料は持ち合わせていなかった。今日の読者にとっても、あまりインパクトのある作品とは言えないだろう。もしこの小説にいくばくかの意義があるとすれば、それは、当時の東京の世相とか庶民のものの見方とかが、一端なりともうかがわれることだろう。この小説に出てくる人物たちのものの見方というものは、いまの日本人のそれとはかなり異なっているのである。断絶しているというのでもないが、今の日本人にはピントこないものを、この小説の中の人物たちは感じさせるのである。漱石の小説の人物たちが、今日の日本人との連続性を強く感じさせるのとは、大いに相違している。漱石の人物像が、人間の普遍的なあり方をモデルにしているのに対して、秋声は自分がたまたま関わりあった具体的な人物を、ありのままに描いたからかもしれない。

この小説の舞台は、秋声が以前住んでいた小石川表町の酒屋をモデルにしている。その酒屋の主人らを想起しながら書いたのだという。多少は脚色してある。たとえば、浅草の一角に乾物屋のような小店を出しているといった具合だ。小石川も出てくるが、それは主人公の女房が以前奉公していた主人の家があるところとしてである。だが、主人公の人物像は、小石川に現実にいた酒屋の主人を念頭においているのだろう。その男の個性に強く寄り添ったために、小説の人物像がかなり特殊で、したがって漱石の人物のような普遍性を感じさせないのだと思う。

二十代半ばになったその小店の主人が、知り合いの斡旋で嫁をとるいきさつを描いている。それに、もう一人別の女がからんでくる。その別の女というのは、多少のいかがわしさを感じさせる小野という男の女房お国なのだが、その小野が警察にしょっ引かれたあと、主人公の新吉を頼ってくる。折から、新吉の女房お作がお産のために里帰りして不在だったために、お国は新吉の女房気取りで居座る。正妻が流産して帰ってきても、しばらく居座り続ける。そんなお国が正妻のお作には邪魔でしょうがないのだが、お国は一向に気にする様子がなく、新吉夫婦と同じ部屋に起居するありさまである。そのうち、新吉もさすがに我慢ならず、お国に嫌がらせをいって追い出してしまうのだが、追い出されたお国には行き場所がない。当時路頭に迷った女にできることは、泥水稼業くらいなことだ。お国もまた、その泥水稼業につかるだろうことを暗示させながら小説は終わるのである。

要するに、一人の男と二人の女の三角関係を描いているわけだ。漱石も三角関係を描くのが好きだったが、漱石の場合には、一人の女を二人の男が奪い合うというパターンに終始した。ところが秋声は、その逆をとって、二人の女が一人の男を奪い合うさまを描いたわけである。当時の日本では、男が妾をかかえるのは当たり前のことだったが、その場合でも正妻の地位は高かった。正妻が妾のためにみじめな思いをすることは、嫉妬を別にすれば、あまり問題にならなかった。この小説の中でも、正妻格のお作は、魅力に欠けた女として描かれ、それに比べてお国のほうは色気ある女として描かれているのだが、主人公の新吉は正妻のお作を大事にして、お国を追い出しにかかるのである。

それにしても、お作はとことん魅力に欠けた女として描かれている。器量は悪いし、気が利かない。いつも亭主に小言をくらって、ニヤニヤと笑っているありさまだ。知恵が足りないのかと思わせるくらいである。しかも、別の女が家に入り込んで、あたかも女房のような顔をしていても、それについて自分の気持ちをぶつけることもできない。かえって自分の家のなかに居場所をもてず、以前奉公していた家を訪ねたり、親戚の家で無駄話をする始末なのである。だから、亭主から足蹴にされたら、すごすごと逃げ去るに決まっているのである。それがあいかわらず女房でいられるのは、亭主の慈悲のたまものというふうに伝わってくるように書かれている。じっさいお作は、亭主から二つ目の種をさずかるのである。

小説の大部分は、主人公の新吉が女房のお作に対する愚痴をこぼすことからなっている。新吉は、女房になったからには、家事だけではなく、店の繁盛にも貢献してもらいたいと思っている。ところがお作は、店のことが出来ないだけでなく、家事もろくろく出来ない。無能極まりないのである。そんな女を女房にしたことを、新吉はうかつだったと後悔し、そのいらだちをお作にぶつけるのだが、ぶつけられたお作はどぎまぎするだけで、情況をよくしようとする度量はない。だから、ほかの女に亭主を取られても文句を言えないところなのだが、それが女房でありつづけられるのは、新吉の慈悲心のためか、あるいは庶民の世帯なんてそんなものだという諦念が働いているのか。とにかく、すっきりとしない人間関係がこの小説の世界を満たしているのである。

この小説に出てくる人間たちは、お国は例外として、しっかりとした自我をもっているようには書かれていない。そのお国にしたって、自分の身の始末にまどう有様なのである。お作は世間に流されるままに生きているにすぎないし、新吉にしても、自分のことしか考えられないような小物である。こんな人間ばかりで成り立っている社会というものは、じつに味気ないだろうと思うのだが、秋声にとっては、世界とはそうした味気ないものであったようである。





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