徳田秋声の「足迹」を読む。

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「足迹」は徳田秋声の最初の本格的長編小説である。「新世帯」とならんで、かれの自然主義的作風の最初の結実というふうに今日では評価されているが、発表当時は大した反響を呼ばなかった。後年の作品「黴」が当時隆盛をみせるようになってきた自然主義的文学の見本のようにもてはやされるにしたがい、それに先行する自然主義的作風を示したものと再認識されたのである。

秋声文学の骨頂は女の視点から世の中を眺めるというものであるが、この「足迹」はそうした秋声文学の特徴を早くもあらわしたものである。お庄という名の女性の視点から、明治末期の日本社会のありさまを淡々と描いている。小説の始まる時点では十一であったお庄が二十歳をいくつかすぎるあたりで終わっている。劇的な終わり方ではない。見合いをさせられ結婚した男が暴力をふるうので、いたたまれなくなって婚家を飛び出すのである。その婚家というのが複雑な家族関係で、当時の日本人の家族関係を考えざるえなくさせられる。秋声は、基本的には社会的な批判意識を表に出さない作家だが、しかし彼がさりげなく描く人間関係のあり方が、どうしても読者の批判意識に訴えずにはおかないのである。

小説の舞台となった明治末近くの東京は、日清・日露両戦役の勝利で自信をつけた日本人が、強大な国家づくりに励んでいた時代だが、そうした時代の勢いというものをこの小説は感じさせない。ただ、地方からさまざまな人間が東京めざしてやってくるところは書かれている。東京は、地方から人々を引き付ける魅力のある都市として描かれている。じっさいこの小説の主人公お庄を含め、いったん東京での生活になじんだ人間にとっては、地方に舞い戻るというのは考えられないことだというふうに書かれている。

その東京も、いわゆる御朱印地の範囲を出ないものとされている。四ツ谷でさえ郊外のような感覚で描かれ、新宿は本物の郊外、中野は完全に東京ではなく田舎である。主人公らにとっての東京とは、湯島とか日本橋とか浅草といった場所である。要するに庶民が肩を寄せ合わせて暮らす街が東京なのである。当時は山手線などはなく、飯田町から出ている中央線の前身が主な交通機関であった。漱石の「それから」に出てくる市街外電車もあったはずだが、この小説には、市街電車に乗り込む場面は一切なく、そのかわり人力車が進出する。ちょっと遠くに出かける脚として人力車が活躍していたというから、いたく時代を感じさせられる。まるで徳川時代と隣り合わせのようだ。

お庄の家族は、父母と数人の弟たちからなる。父親は先祖譲りの財産を食いつぶして、故郷を棄て、妻子とともに東京に出てくる。その時主人公のお庄は十一だった。この父親が、とことん甲斐性のない男で、しまいには家族を捨てて、単身田舎に行ってしまう。とり残された妻子は、それでもなんとか暮していく。それには、父方、母方の親戚が大きな役割を果たす。当時の日本人は強固な親戚の絆があって、その絆に頼って暮しているものが結構いたらしいのである。そういう親戚同士の支えあいは今日ではほとんど見られなくなったので、秋声描く当時の日本人の人間関係は実に興味深く映る。

小説はいちおう三人称によるいわゆる客観小説であるが、始終お庄という一人の女の視線に寄り添っている。そのお庄が十一で東京に出てきて、十八やそこらで嫁に出される。その間に、他家で見習修行をしたり、また男と付き合ったりする。お庄は当時でもませた女だったらしく、十六やそこらで男を知ったということになっている。もっとも、この小説には性的な描写は全くない。ただなにげなくほのめかすだけである。日本の小説家は、性的な分野では奥手であって、性的場面を堂々と描写するようなことは、おそらくはしたないことだとされて、誰も試みなかったのである。女の生き方を描くことにこだわった秋声でさえ、性的な描写は固く慎んでいる。

お庄は、父親が田舎へ去ったあと母親や弟たちと東京にとり残されたのであるが、生活に困っている様子には見えない。父親が仕送りしているのかと思えば、どうやらそうでもない。親戚の好意に甘えて、ズルズルと暮しているようなのである。つまり、母子で居候をしているわけだ。そういうような生き方が、明治の末年ちかくの日本で本当に可能であったのか。

お庄は、最初の恋人との関係がうまくいかなくて、中野にある料理屋に嫁入りしたのだが、その話をやはり、親戚がお膳立てしてくれる。生活の面倒をみるばかりでなく、結婚の世話までするわけだから、非常に御人好しなのである。この小説には、お庄の夫になった男のように、どうしようもないならず者も出てくるが、大方は善良な人間ばかりが出てくる。秋声はのちに、男に食い物にされる女を描くようになるが、この小説では、女たちはいちおう自分なりに身を保っているし、女を食い物にしようというようなあくどい男は出てこない。

お庄は、亭主とその家族に嫌気がさして逃げ出すのだが、それがまるで、家出をするようなのである。荷物ともども人力車に乗って、雨の中を東京をめざす。逃げ出したあとに、なんというあてがあるわけではない。それまで生きてきた経験から、女一人の体ならどうとでもなると思い込んでいる。ただ、母親が気がかりなので、なんとか母親の身の落ちつけどころを決めてやらねばならない、という使命感は持っている。だからいい加減なわけではないのだが、その発作的な生き方がいかにも無造作なのである。

読んでいて多少気になったのは、言葉遣いのユニークさだ。古風というのではない、いまにつながる東京言葉とかなり違った印象を受ける。漱石の小説を読むと、その言葉遣いが現代と連続しているのを感じるが、秋声の言葉遣いには、断絶を思わせる部分がある。かれの出身地金沢の土地の言葉が、つい出てきてしまうのだろう。





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