徳田秋声「爛」を読む

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「爛」は、「新世帯」で自然主義的作風に転換した徳田秋声が、「足迹」、「黴」を経て、一つの到達点に達した作品といってよい。その文学的な成果は二つある。一つは文体の洗練、一つは描写の客観性の深化である。

文体については、あいかわらず古風な言い回しの文章で、同時代のほかの作家たちに比べて、古臭い印象を与えるのであるが、それがこの小説では、それなりに整って、洗練されたイメージを与える。文体の古風なことは、かならずしも欠点ではない。じっさい明治の末になっても、意識的に擬古的な文体を駆使する作家もいたのである。永井荷風とか谷崎潤一郎はそのいい例だが、徳田には意識的に擬古的に書こうという意図は感じられず、そう書くよりほかに書きようがないのだという事情が察せられるのだが、そういった開き直りの姿勢が、この小説ではいい結果を呼んでいるようなのである。

描写という点では、前二作における私小説的な描写は相変わらずなのだが、前二者が文字通り秋声個人の人間関係を反映した私小説そのものなのに対して、この小説はあくまでも作り物の話ということにしてある。その分、話の展開に自由が感じられる。その自由は、架空の話を客観的な視線から描くという形をとるのだが、なにせ題材となった事柄が市井の人間の日常の生きざまなので、そこにはほとんど意外性を感じさせるものは見当たらない。それゆえ、第三者である読者は、これを私小説と同じような感覚で読むことになる。私小説と異なるのは、これが徳田秋声個人の身に起きた現実の事柄ではなく、徳田の頭の中でこしらえられた架空の出来事だということだが、どちらにしても、その辺にいる人間の個人的な事情を淡々と描いているということに変わりはない。

この小説を読んで感じるところがあるとすれば、明治末の時代の日本人の生き方とか感じ方とかが如実に伝わってくるということだろう。この小説の主人公は、男に依存して生きている女たちである。出てくる女たちは、お増を筆頭にして、年上の遊女仲間だったお雪、お増の旦那浅井の妻お柳、そして浅井が面倒を見ている思春期の女お今など、どれも自立していない。経済的に自立していないだけでなく、精神的にも自立していない。だから男に捨てられると堕落の底に沈むほかはない。じっさい主人公のお増は、いつ男に捨てられるか、そのことばかり考えながら生きているのである。

お増は、遊女だったころに浅井という男に惚れられて、その妾となった。明治の末には、日本でも小金を持った成金が多数生まれて、その連中の間に妾をもつことが流行ったようである。秋声のこの小説は、そうした時代を背景に読まなければなかなか理解できない。妾を持つのは趣味のようなものだから、男女の間に真剣な関係が成り立つはずはない。もし旦那と妾の関係が真剣に発展すれば、正妻の居場所はなくなる。この小説の中では、浅井に飽きられた正妻のお柳はいとも簡単に捨てられてしまうのである。そのお柳にしてからが、親元からは金づるのように扱われて、しまいには金に眼のくらんだ兄によって、簡単に離縁を吞まされてしまう。その挙句、絶望が募って発狂し、ついには悲惨な死を遂げることとなる。その次第を読むについても、明治末の女たちがいかに男に依存して生きていたかが思い知らされるのである。

浅井という男は女癖の悪いやつで、方々に女を作って遊びまわるばかりか、思春期のお今にまで手をつける。そんな浅井にお増はあきれかえるのだが、だからといって、どうすることもできない。ただただ浅井によって捨てられないように心がけるだけだ。もし捨てられても、お柳のように狂い死ぬような眼には会いたくないと思っている。じっさい捨てられずに余生を全うできるかどうかは自信がない。未来のことなど考えても仕方がないのだ。とりあえずこの小説の中では、お増は浅井に捨てられるまではいたらず、夫婦の体面を保ち続けている。

ともあれ、この小説に描かれた男女関係を見ると、なんでも金次第というふうに伝わってくる。中には、お雪のように、自分の気持に忠実で、なにもかも捨てて愛に生きるという気概を持った女も出てくるが、それは基本的には、遊女が色男を想う気持ちであり、いわゆる「健全な」男女関係におけるものではない。なお、小説の題名となった「爛」とは、女が男のために情死しかねかいほど入れ込んでいる状態を意味する言葉らしい。だから、否定的な意味合いではなく、肯定的な意味合いで使われているわけだ。

そんな心が爛れるほどの恋を、主人公のお増はしたことがない。浅井との間にも、心が爛れるような恋は生まれなかった。それどころか、互いに争うことが多く、「争えば争うほど、お増は自分を離れて行く男の心の冷たい脈拍に触れるのが腹立たしかった。ある晩などは、お増はくやしまぎれに、鏡台から剃刀を取り出して、咽喉に突き立てようとしたほど、絶望的な感情が激昂して」くることもあったのである。

そんなことからお増は、浅井との間で安定した関係を結ぶことができず、つねに捨てられるのではないかという不安に悩まされている。その不安は、彼女があらゆる意味で自立できていないことに根差している。彼女のすべては、浅井に結びついており、彼女の存在は浅井という男への依存の上に成り立っている。だから彼女にできることは、浅井に向かって愚痴の一つもきくことだ。だがあまり愚痴が過ぎると嫌われることがわかっているので、彼女は男の顔色を見ながら愚痴の効果の程度を推し量っているのである。

こういうタイプの小説は、今日の女性読者には、あまりにも時代離れした荒唐無稽な語り物のように映るのではないか。荒唐無稽の最たるものは、お柳の残していった少女をお増すが引き受けて育てることだ。養女の制度は昔からあったようだから、別に極端に不自然なわけではないが、しかし人間の子どもが犬の子が貰われるように貰われてゆき、貰われた先で大人の顔色を見ながら生きようとするさまは、どこか異常なものを感じさせる。




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