忖度しません:斎藤美奈子の書評兼社会時評

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斎藤美奈子は、月間読書誌「ちくま」に、書評を兼ねた社会時評を連載し、折々にそれらをまとめた単行本を刊行してきた。「忖度しません」は、その第三作目である。雑誌連載の原稿にかなり手を加えてあるという。

斎藤の日本社会を見る目は非常にシビアだ。また、かなり適切でもある。日本社会全体が長い閉塞状況に陥っているなかで、なにがそうさせたのか、という問題意識をもって現象の背後に迫る努力が感じられる。

読書誌への連載ということもあって、あくまでも書評が主体で、それに社会時評を絡ませるというスタイルを徹底している。斎藤なりに注目した社会問題に関連のありそうな本を読み、その本を批評しながら、問題の解明にあたるというようなやり方だ。そうした社会問題は、同時代に進行している現象である。だから斎藤のこの仕事は、同時代批判という色彩を帯びる。その批判の調子は、対象となる日本社会自体が暗澹たるさまを呈しているので、勢い暗いものにならざるをえない。斎藤のこの本を読むと、日本及び日本人には明るい未来は無縁だと感じさせられる。

書評だからということでもないだろうが、小生ならバカバカしくて読む気にもならないようなクズ本まで丁寧に読み込んで、誠実な姿勢でとりあげているところは、なかなかマネのできないことである。

「バカが世の中を悪くする、とか言ってる場合じゃない」以下、五つのテーマに大別して各文章を割り当てている。斎藤の日本社会についての基本認識は、バカが世の中を牛耳っているおかげで、日本社会はめちゃくちゃになってしまったというもので、その馬鹿の大将格として安倍晋三を見ていることだ。だが安倍とその一派をつかまえて、「バカが世の中を悪くする」といって、嘆息するばかりが能ではない。バカは徹底的にやり込めて、社会全体を少しでもよくする努力をしなければならない、というのが彼女の実践的な姿勢である。

個別の文章の中では、田中角栄をとりあげたものが白眉といえる。角栄を斎藤は、「郷土の恥」と言いながらも(斎藤は角栄と同じく新潟県出身)、その歴史的な意義を評価してもいる。角栄は大規模な財政出動で日本全体の底上げを狙ったが、かれが汚職で失脚すると、角栄とは真逆の新自由主義的な路線が主流になった。今日にいたる長い不況をもたらしたのは、新自由主義的な政策に大きな原因があるというのが、斎藤の基本認識である。

斎藤は、もし角栄がもっと長く政権の座にあったならば、日本はもうすこしまともな国になっただろうと思っているフシがある。そのうえで、角栄は冤罪によって権力の座を追われた、という見方に一定の理解を示している。角栄を権力の座から追放したのは、角栄の自主外交を喜ばなかったアメリカ政府と、それに随従していた日本国内の買弁勢力だったとする見方があるが、それはかなり本当らしい見方である。

高齢化の進行を背景に、老人問題についての発信が多い。老人を主人公にした小説を幻冬小説と斎藤は言うのだが、その玄冬小説の主要なテーマはボケであり、国全体の老化である。斎藤によれば、日本社会は1990年前後に発展のピークを迎えたあとは、一貫して縮小の過程をたどってきている。縮小はそれ自体としては決してマイナスばかりではないが、しかし、縮小するのが当たり前と思うようになると、人間には進歩への動機が失われる。いまの日本人ほど、進歩への動機に乏しく、過去のことばかりに拘っている民族はいない。しかもその過去への拘り方は、都合の悪いことをすべて否定するという歴史修正主義という形をとっている。自分の過去についてゆがんだ見方しかできない民族に、明るい未来が期待できるはずもない。斎藤はどうも、そう思っているようである。





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