徳田秋声「あらくれ」を読む

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徳田秋声の小説「あらくれ」は、日本の自然主義文学の最高峰とされている。そこで自然主義文学とは何かということが問題になる。文学論の常識を踏まえれば、自然主義文学とは、19世紀末にフランスで盛んになった文学運動であり、エミール・ゾラやギ・ド・モーパッサンなどによって代表されるというのが定説である。そう言われても具体的なイメージが浮かび上がってこないが、ゾラやモーパンサンの小説の特徴が、同時代の人間社会を写実的に描いて点にあることからすれば、要するに写実性を重んじた文学ということのようだ。写実は人間や社会の現実に及ぶので、当然社会的な問題意識も感じさせる。

日本の一時期の文学が、フランスの自然主義に影響を受けたことは事実である。それも、近代文学が日本に根付こうという矢先に起きたことだから、日本のその後の文学のあり方に、決定的な影響を及ぼした。鴎外・漱石を別格にすれば、日本の近代小説は、島崎藤村や田山花袋といった自然主義作家によって筋道をつけられ、かれらの写実的な文学がその後の日本文学の手本となり続けたのである。その場合に、藤村にしろ花袋にしろ、自分の身近な現実に素材を求めたため、私小説とか身辺小説とか呼ばれるようになった。そんなこともあって、日本の自然主義文学といえば、ほとんど私小説と同義に受け取られたこともあったくらいである。

徳田秋声はもともと尾崎紅葉の弟子であり、硯友社風の美文調を持ち味としていたのだったが、美文家としては泉鏡花の足下に及ばなかった。だが、花袋らによって私小説のジャンルが確立されると、自分も身辺に取材した小説を手がけるようになり、それが意外と彼の性にあった。「新世帯」に始まり、「足迹」、「黴」、「爛」へと続く一連の小説は、いずれもいわゆる身辺小説であって、「黴」と「爛」は秋声の最初の妻の生きざまに取材したものであった。「あらくれ」は、一応架空の女を主人公にした小説であるが、その女は日本のどこにでもいるようなありふれた女であって、そんな女の生き様を小説にしても、劇的なものにはならぬところを、秋声はそれまでに培ってきた身辺小説の手法を駆使して、読めるものに仕上げたのであった。

そんなわけで、秋声がこの小説で描いているのは、同時代の日本の社会とそこに生きる日本人の飾らぬ生きざまである。それがあまりにも生々しいので、我々令和の時代に生きる日本人が読んでも、かなりな迫真性を感じる。その迫真性は、日本という社会が持っている独特のあくどさを、いまだに日本人が保っていることの証のように思える。じっさいこの小説の中で描かれた日本人たちは、どいつもこいつも利己的であって、親兄弟の間にさえ人間的なやさしさの感情はうかがえず、ただひたすら自分のための打算に打ち込んでいる情けない輩ばかりなのである。

主人公は女であるから、男に惚れることもあるが、その惚れ方にしてからが、自然な愛情ではなく、打算の混じったものだ。秋声が生きた時代の日本の若い女には、自分の内部から湧き上がってくる自然な愛に忠実にふるまうことはむつかしかっただろうから、愛が打算に裏打ちされるのも仕方のないことであるが、それにしても、この小説には、秋声の他の小説におけると同様、男女の愛の自然なやりとりは一切描かれていない。男女の愛が、どの民族の文学においても最重要のテーマだったことを思えば、秋声の世界にそれが決定的に欠けていることは、日本の自然主義文學の特異性を物語っているのであろうか。

日本の文学に愛の要素が欠けているわけではない。源氏物語以来、男女の愛は文学の最重要の要素であり続けてきたし、近代に入ってからも、鴎外や漱石は男女の愛を描いたものである。もっとも漱石の場合には、姦通ばかりを描いており、そこにかれの偏った文学的嗜好を指摘できるのではあるが。

題名の「あらくれ」とは、主人公であるお島という女の気性をあらわした言葉だ。ふつう「あらくれ」という言葉は、博労とか無鉄砲な生き方をする男をさす言葉だが、この小説の中のお島は、男勝りに荒れた生き方をしているのである。彼女は実の父母によって棄てられ、養父母からも愛されることがなくて、十七八の若さで、虫唾が走るほど嫌悪している男と結婚させられ、その結婚を逃れたあとは、一つ身で放浪を重ねるのである。その放浪の途中、色々な男と出会う。それらの男とは、好きでくっついたわけではなく、成り行き上くっついてしまうのであるが、くっつけばくっついたで、別の味も出て来るといった塩梅なのだ。

最後にくっ付いた男は、どうしようもなく不細工で頼りない男なのだが、それでもお島は、他に選択肢がないという理由で、その男にくっついている。ひとつだけ嫌なことは、その男とのセックスに肉体上の苦痛を覚えることだ。行間からして、どうも男女の器官が相互に折り合わないところに原因があるようだ。男があまりはげしく迫るので、お島は陰毛がすり切れるほどの目にあう。それで彼女は、男の性欲をかわすために、妾をあてがってやろうと考える始末なのである。

さすがのお島も、その男に愛想をつかす。小説は、お島が男を捨てて、また一から出なおす決意をするところを描くことで終わっているのである。

このお島のような気性の女は、何時の時代にもいると思うが、秋声が生きた時代においては、ただでさえ女は抑圧されていて生きづらかったであろうから、お島のように自立心の強い女にとっては、耐えがたい社会だったに違いない。そうした、女にとっての耐えがたさというものは、令和の時代においても、日本社会の大きな特徴だと思う。





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