中論を読む

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「中論」のテクストとして目下手に入りやすいものは、筑摩書房刊行「古典世界文學」シリーズ7「仏典Ⅱ」に収められた平川彰訳「中論の頌」であるが、これは抄訳であり、また非常に難解とあって、仏教や中観派の予備知識がない者が読んでも、なかなか理解できない。そこで注釈書が不可欠になる。注釈書としては、チャンドラキールティのものを始め古来色々なものが流通しているが、それらも素人にとって読みやすいものではない。そこで現代の日本人の書いたもので、わかりやすい注釈書はないかと探し回ったところ、高名な仏教学者中村元の「龍樹」という本に出会った。この本は、龍樹(中論の著者)の生涯を簡単に紹介した後、その思想を、中論を拠り所にしながら説明している。かなり念の入った説明で、実質的には、中論への丁寧な注釈と言ってよい。小生のような、仏教の知識に乏しいものには、非常にありがたい本である。しかも、巻末には、中論全27章の、サンスクリット語からの現代日本語訳を載せている。筑摩版と合わせ読むことで、中論への理解が深まると思う。

中村によれば、龍樹(以下ナーガールジュナという)が「中論」の中で展開している思想を簡単に言うと、「空」の思想だという。空は、普通に思われているような「無」ではない。無は有の対立概念であって、有を前提にしているが、空は有でもなければ無でもなく、また有無でもない。有無を超越したものである。有無は存在に囚われた概念であって、したがって存在の主体としての存在そのもの、つまり自性を前提にしている。空は存在を超越しているので、自性をもたない。無自性である。それはどういうことかというと、縁起によるということである。縁起とは、相依関係のことをいい、なにごともそれ自体としては存在せず、相依関係の網の目のようなものである。それを空と仏教では言う。

したがって、「中論」は、基本的には縁起を説いたものということができる。じっさい中論は縁起の考察から始まっているのである。縁起は有または無という極端を離れている。これを無二辺という。その無二辺はまた、有無の中間と呼ばれる場合がある。中観派がおのれを中観と呼ぶのは、そこに理由がある。

以上が、「中論」の基本的な内容にかかわることである。その基本線に沿って、さまざまな言説が展開される。その言説は、多くの場合論敵との論争というかたちを取っている。「中論」という書物は、頌という韻文で書かれているが、主張を体系的に述べたものではなく、論敵との論争という形をとっているのである。詩集あるいは叙事詩というよりは、論争の所である。論争の主たる相手は、小乗の説一切有部である。説一切有部は、その漢語の名称が示す通り、あらゆるものに自性があると主張した。そういう意味では、西洋哲学史における実念論に似ていると中村は言う。それに対してナーガールジュナは、あらゆるものには自性がなく、自性と誤解されているものは単なる名前に過ぎないと主張する。その主張を中村は、西洋哲学における唯名論に譬えている。

いずれにしてもナーガールジュナの説は、空の思想に立っていることで、般若経の思想に非常に近いものがあると中村は言っている。同じくナーガールジュナの著作とされる「大智度論」が「大般若経」への注釈として書かれたことはよく知られているが、この「中論」もまた般若経への注釈としての意義をもっている。般若経といえば、始めて大乗の教えを体系的に解いたものとされているが、その大乗の教えには、小乗よりも原始仏教に近いものが含まれていると中村は言う。その意味では、般若経とその基本思想である空の思想は、大乗が初めて主張したものではなく、原始仏教に含まれていたものだということになる。ところが説一切有部などの小乗によって、空の思想が閑却され、空とは真逆の自性が云々されるようになった。これは原始仏教の精神に反することと言わねばならない。ナーガールジュナは、空の思想に再注目することで、原始仏教の精神を再興したというのが、中村の基本的な見立てである(こうした中村の説は、鈴木大拙と共通するところがあるが、無論異論もある。特に、西洋のインド思想の専門家の間では、大乗はヒンズー化された仏教であり、小乗に比べて原始仏教の精神から遠ざかっているとする説が有力であるようだ)。

ともあれ、中村元の注釈を頼りにしながら、ここでは「中論」のテクストの意味するところを読み解いていきたいと思う。基本テクストとしては、上述した中村の現代日本語訳を用い、適宜平川の訳を参照した。






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