日本右翼の源流 玄洋社:日本の右翼その二

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日本で政治的な運動団体としての右翼が現れるのは明治以降のことである。徳川時代には、右翼というフランス由来の言葉は無論ないし、その右翼の特徴であるところの反動的なナショナリズムといった観念も育っていなかった。一応、明治維新の遂行者たちに影響を与えた国学とか神道の思想には、今日右翼の特徴とされる考え方が見られなかったわけではなかったが、右翼は左翼あっての右翼であることを思えば、左翼の存在しない徳川時代に右翼が育つわけもなかったのである。

日本で最初の右翼団体は玄洋社である、というのが近代史の常識になっているようである。そこで、玄洋社の結成の経緯とか、その思想や行動様式を詳しく見ることにより、日本の右翼のスタート地点での特徴をつかむことができる。

玄洋社が設立されたのは明治十二年(1879)である。設立時の主要メンバーには、箱田六輔、平岡浩太郎、頭山満らであった。これらのメンバーは。いずれも自由民権運動に何らかのかかわりをもっていた。箱田は、堅志者の創始者であり、平岡と頭山は矯志社の社長と幹部メンバーだったが、これらはいずれも板垣退助の愛国公党と深い結びつきを持っていた。

愛国公党は、全国の自由民権運動を主導した団体である。一応、表向きには自由民権を旗印にしていたが、権力闘争の側面も多分に持っていた。板垣は、民権を藩閥専制政府へ対抗する理念としたわけだが、じっさいには、権力へのかかわりに強い意欲をもっていた。板垣の行動には、純粋な民権の立場からは不可解なものが多いが、それはかれが理想主義者である前に、リアリストだったことに基く。リアリストとしての板垣は、目の前に権力参加というニンジンをぶら下げられると、民権という大義を擲って、権力になびくところがあった。板垣は土佐藩の出身だが、土佐藩は維新の大業に決定的な役割を果たしたにかかわらず、維新後は薩長藩閥に抑圧されて、権力の中枢を占めることができなかった。その鬱憤を自由民権運動という形で表現し、全国の不平分子を糾合して、薩長との間の権力闘争を有利に進めたいという思惑があった。だから、自由民権運動には、無論民衆を巻き込んでの社会改良的な面もあるが、すくなくとも板垣ら中枢メンバーの間には、薩長への強い対抗意識に基いた権力への欲望が働いていたということができる。

玄洋社の設立メンバーは61名で、ほとんどは旧福岡藩士である。福岡藩は、土佐藩ほど派手ではないが、親維新派として一定の役割を果たしてきたという矜持をもっていた。ところが維新後は、権力の中枢から徹底的に排除された。それがかれらにとって強い不満の種になった。それが、板垣の反藩閥運動たる自由民権運動への強い結びつきとなってあらわれたわけである。

そうした不満を、九州などの他藩の没落氏族も共有しており、明治九年以降不平士族の乱として爆発した。明治十年には、ほかならぬ薩摩の西郷が公然と新政府に対抗し、西南戦争を起している。同年、福岡でも氏族の乱がおこり(福岡の乱)、民権派のメンバーの多くが、その乱に加わって戦死している。箱田や頭山は、明治九年中に別件で検挙されて獄中にいたおかげで、福岡の乱の騒ぎには巻き込まれなかった。そこでかれらは、出獄後に向陽者を設立し、自由民権運動を推し進め、その向陽社を改組するかたちで玄洋社を設立した。玄洋社という名称は、玄界灘に由来する。玄界灘に突起する海の中道の一郭に根拠地を設けたことから玄洋社と名付けたのである。

このように、右翼団体としての玄洋社の起源が、自由民権運動にあったというのは意外に映るかもしれない。しかし、上述したように、自由民権運動の旗手板垣自身のなかに、自由民権を権力闘争の手段とする姿勢があったわけだから、福岡の不平士族の集まりである玄洋社が、権力闘争の手段として自由民権を使うのは不自然ではない。じっさい、その権力闘争に一定の始末がつくと、全国の自由民権団体は雲散霧消してしまうし、玄洋社もまた、民権から国権へと転換をとげていくのである。

玄洋社はその後頭山満によって牽引されていくので、ここでその頭山の思想を見ておく必要があろう。頭山に自由民権についての確固たる信念があったとは到底思えない。そもそも思想らしきものがあったともいえない。唯一かれの思想らしきものは、西郷隆盛から受け継いだものである。かれは西郷の死後その旧宅をたずね、西郷生前の生き方や考えを知ろうとした。西郷の姻戚にあたるものが、それを教えてくれたのだが、それを一言でいえば、道義尊重と国を愛する気持ちであった。そのことを頭山自身、玄洋社の「精神は西郷先生の道義主義、日本主義と何らの変わりはない」と述べている。

ここで道義主義と言っているものは、道義を重んずるという意味らしいが、明確な内容があるわけではない。西郷は生前大塩平八郎の「洗心洞箚記」を愛読していたとされ、そこに記された陽明学的な姿勢を理想としていた。その西郷の遺品である大塩の著作を頭山は譲り受けて熟読したというから、おそらく大塩の持っている義侠的な要素に惹かれたのであろうと思われる。大塩は一応陽明学者ではあるが、かれの陽明学は義侠心に通じるものがあった。その義侠的な要素を頭山も受け継いだのだと思う。後に日本の右翼は任侠やくざと深い結びつきを持つようになるが、それは義侠心を通じてであった。

また、西郷の日本主義は、日本をアジアの盟主とすべきだというものである。西郷の征韓論は、とかく侵略主義のようにとらえられがちだが、西郷本人は侵略的な考えはもっておらず、アジアと連帯して欧米の力に対抗しようとするものだった。だが、本人の真意は別にして、西郷のアジア主義がその後の右翼的なアジア主義を扇動したことに違いはない。

ともあれ、玄洋社に代表される日本の初期の右翼運動は、一方では板垣らの自由民権運動と深く結びつきながら、他方では日本主義という形の国権主義に結びつくような要素も持っていたわけである。






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