徳田秋声「縮図」を読む

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徳田秋声が小説「縮図」を都新聞に連載し始めたのは昭和十六年(1941)六月であるが、連載八十回にして情報局の介入を招いて中断、その後書き継がれることがなたったため、秋声にとっての遺作となった。秋声は1943年の11月に癌で死んだのである。介入の理由は、時節柄芸者の世界を描くのは不謹慎だというものだったが、秋声はこの小説の中で、戦争による物資欠乏で庶民の生活が苦しくなっているさまにも言及しており、そういう厭戦的な気分に権力が反応した可能性はある。秋声といえば、およそ政治とは無縁な作家と思われていたが、時代の風俗をそのままに描くという作風は、自ずから時代への批判にもつながるのであろう。

この小説の主人公銀子のモデルとなったのは、小石川白山で芸者に出ていた小林政子という女である。秋声はこの女と昭和六年(1931)の夏に知り合ったという。山田順子との縁が切れて間もない頃のことである。その女の生き方に秋声は作家としての興味をひかれたのであろう。彼女の生き方を参考にしながら、芸者を主人公とした秋声得意の身辺小説を構想したというわけであろう。

もっとも、事実にはかならずしも囚われていないことは、主人公の銀子のヒモである男均平の位置づけからもわかる。小説の中では、この均平が銀子に置屋をやらせてヒモとなっているさまが描かれており、その均平には無論秋声の面影を見ることができないでもないが、基本的には架空の人物像である。その均平が囲っている銀子の生き様に均平が興味を抱いて、それを懐古的に回想するというのがこの小説の基本プロットとなっている。書き出しの時点では、その均平の視線に立つような仕方で語られるのであるが、いつの間にか銀子自身の視点に変わっていくのである。

小説の始めの時点では、銀子はおそらく二十代後半か三十に手の届きそうな年齢である。芸者の世界は年を取るのが早く、「二十二・三ともなれば、それはもう年増の部類で、二十六・七にもなれば、お婆さんのほう」なのである。お婆さんとなっては、年配者の座持ちに呼ばれるか、あるいは自分で芸者を抱える身になるか、この世界で引きつづき生きていくには相当の努力がいるのである。

銀子がなぜ均平の妾になったのか、そのいきさつは詳しくは語られていない。最初は客として接しているうちに、次第に情が移り、置屋でも持たせながら妾として囲おうということだったようだ。銀子は、十六・七の頃から、貧しい両親のために家の犠牲となり、方々の置屋を渡り歩きながら、女としての恋もしたり、また人生経験を積んでいったのだが、大局的に見れば、家の犠牲になって自分の生涯を無駄にしたといえなくもない。そんな銀子の生き方に代表されるような当時の女の生き方は、日本社会の矛盾を一手に引き受けているというふうに秋声は感じて、その同情が、この小説に人間的な潤いをもたらしているのである。当時の日本の女性が置かれていた境遇は、一概に厳しいものであったのだが、とりわけ芸者のようないわゆる賎業の女にとってその厳しさはまた格別のものだったようだ。それは日本人の人間関係のある種の特徴といったものに根ざしていると秋声は考えたようである。秋声は次のように書くのだ。

「人々は一見仲良く暮らしているように見えながら、親子は親子で、夫婦は夫婦で相食み、不潔物に発生する黴菌や寄生虫のように、女の血を吸ってあるく人種もあって、はかない人情で緩和され、繊弱い情緒で粉飾された平和の裡にも、生存の闘争はいつ止むべしとも見えないのであった」

こうした諦念のようなものが、秋声をして一層弱い女に寄り添わせる態度を養ったのであろう。だが、秋声の描く賎行の女は、あくまで芸者にとどまっている。荷風が取り上げたような、キャフェの女給とか街娼といった新しいタイプの賎業婦は秋声の視野には入ってこなかった。そういう点では、秋声は比較的閉じた空間に己の身を置いていたのである。

この小説の中の主人公銀子は、短い間に色々な境遇に自分の身を移し替えている。下総とか石巻といった田舎の芸者になったかと思えば、東京各地の色街で芸者をしている。彼女は、自分でいまの境遇から脱したいと思えば、たいていはそのようになるのだ。その限りで一定の限度で自由を味わっている。にっちもさっちもいかなくて、ひたすら奴隷的境遇に甘んじるというのではない。それは、どのような背景でそうなっているのか。納得できる書き方にはなっていない。ただ、銀子が自分の身の振りかたを変えたいと思えば、だいたい彼女の思い通りに落ちつくのである。そこが読者の目には不思議に映る。

しかも、芸者稼業をするかたわら、好きな男を作ったりもする。それには彼女の美貌も働いているのであろう。とはいえ、彼女はたいした美人でもなさそうで、しかも小柄で肉付きがよいらしい。顔つきはかわいらしいところもあるようなので、そんなところが男の気をひいたのであろうか。

ともあれこの小説は、中途半端なところでいきなり中断しているので、物語も無論完結していないし、また、出だしの部分と本体の部分との関連も未整理である。この小説は、銀子が二十代の末か三十頃の時点に始まり、一端娘時代に戻ってから、現在まで逐次的にたどっていくというふうになっているのだが、銀子が二十歳ちょっとを過ぎたころで、突然中断するのである。そのちょっと手前の部分で、彼女は生死の境をさまよう重病をわずらうことになっている。その彼女が死なずに済んだのに対して、すぐ下の妹が肺かなにかの病で死ぬのである。

そんなわけでこの小説は、決して傑作と言えるようなものではないが、秋声らしさがもっとも素晴らしい形に発揮された作品とは言えそうである。





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