翼賛体制への右翼の組み入れ:日本の右翼その九

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1940年10月に、総力戦を効果的に遂行するための国民組織として大政翼賛会が結成される。これは当初は自主的な団体という性格をまとっていたが、実体は、国家権力による国民生活全体の統制を目的としたものだった。その目的を達成するため、政党などの政治結社はもとより、経済団体、労働団体、宗教・文化団体、地域共同体など、国民生活にかかわるあらゆる団体・組織が大政翼賛会に統合されていった。右翼団体も例外ではない。右翼団体の中には、石原莞爾の影響を受けた東亜連盟のように、組織としての自主性にこだわったものもあったが、多くは自主的に解散して、政府の意向にしたがった。

大政翼賛会の成立直前に存在していた主な右翼団体としては、玄洋社・黒龍会の流れをくむ大日本生産党、神兵隊事件(血盟団事件とならぶ昭和初期のテロ事件)の首謀者の一人影山正治が立ち上げた大東塾、日本ファシズムを標榜した笹川良一や軍部関係の利権を独占していた児玉誉士夫の関わる国粋大衆党などがあった。それらは、名称こそそのまま存続していたものの、実体としては大政翼賛会の実働部隊として活動した。右翼団体の中には日蓮宗系統の国柱会のように、自主性を主張して翼賛体制に批判的なものもあったが、それらはことごとく官権によって弾圧された。翼賛体制の時期には、右翼のほか、翼賛体制になじまない宗教団体も、徹底的な弾圧を受けた。

日本の右翼には、もともと権力迎合的性格があった。玄洋社は、当初こそ権力に批判的であったが、それは維新にともなう新たな利権の配分をめぐる闘争に起因したものであった。板垣の自由民権運動は、民衆の政治的権利拡大を目指すという表向きの建前と並んで、いかにして権力のおすそ分けを得るかということに腐心していた。そのおすそ分けを得るという体質が、後々まで右翼の行動を規定しつづけたのである。

大政翼賛会への右翼の組み入れは、翼賛体制の中において、右翼が公然と自己の利権を追求する機会を与えたといえるだろう。児玉誉士夫などはその好例である。児玉は、いわゆる児玉機関を通じて軍部の利権に深く踏み込み、巨額の利益を得ていたといわれる。その利益が権力者たちに還流し、その利権の結びつきを通じて、児玉は日本の政治にも大きな影響力を及ぼしたと言われる。児玉に代表される日本の右翼は、もともと権力に迎合する傾向があったと言ったが、それが翼賛体制の時代には極限に達して、右翼は日本の政治を裏から動かせるような実力を持つまでに至ったといえる。

翼賛体制下における日本の右翼はまた、日本的ファシズムの観念的な主唱者の役割を演じた。理論的と言わず観念的というのは、日本の右翼には大した理論的基盤があるわけではなく、いわゆる右翼的な主張を叫んでいただけだからである。その右翼的主張というのは、天皇を中心とした家族的国家観であり、対外的な膨張(侵略)主義であった。これは玄洋社以来、日本の右翼が共有していた根本的な立場である。その立場が、翼賛体制の成立によって、日本全体を導くスローガンとなったわけである。





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