加藤周一の日本文化論

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戦後日本では、日本人論あるいは日本文化論が大いに流行ったことがあった。いろいろな原因があったと思う。あの無謀というべき戦争に負けたことがもっとも大きな要素だったと考えられる。敗戦のショックが、日本人を反省させて、そのような敗戦をもたらした日本人の心性あるいは日本文化の特徴について考えさせたのではないか。その反省は、日本人及び日本文化の特異性の強調に向かうか、あるいはその逆に、失われた自信を償うように、日本人及び日本文化の優秀性を喧伝する方向に向かうか、そのどちらかだった。

加藤周一は、そうした日本人論あるいは日本文化論を、精力的に展開した人だ。戦後の日本人論及び日本文化論の代表選手といってよい。かれは精神医学の出身ということもあって、かなり冷めた目で日本人と日本文化を見ている。その視点の特徴は、日本文化を海外の文化と比較しながら、相対的に眺めるというものだ。客観的といってもよい。あるいは実証的といえるかもしれない。日本人論とか日本文化論というものは、とかく価値判断をともなうものだが、加藤はなるべく価値判断とは離れて、実証的に見ようとする視点を貫こうとしている。

加藤周一が、日本人論及び日本文化論を最初に体系的に提示したのは「日本文化の雑種性」においてである。これは1979年に書かれた。その当時の日本は、戦後の復興を果たし、いわゆる高度成長のまっただなかにあり、非常に自信に満ちていたといえる。だから、戦後盛んになった日本文化への強烈な拒否感とその背景にある劣等感から、ある程度解放されていた、そうした自信が、日本文化礼賛論のようなものを生み出しつつもあった。そういう時代を背景にして加藤は、日本文化を、外国とくに英仏の文化と比較しながら、なるべく実証的に考えようとした。

加藤は、英仏両国の文化は基本的には純粋種だという。古代の国家形成期においてはともかく、近世以降においては、他国の文化の影響をほとんど受けておらず、自国内部で完結した文化を作り上げてきた。それに対して日本は、すでに古代において隣国の強い影響を受け、近代以降も西洋文化の圧倒的な影響をうけてきた。そのような日本文化の特徴を加藤は雑種性というのである。純粋対雑種の差異は価値の相違ではない。どちらが上で、どちらが下というのではない。それぞれにいいところもあれば悪いところもある。

ところが実際のところは、知識人がこの雑種性を嫌うということがおきた。雑種とは劣ったものであり、純粋が勝っている、という価値判断が、日本の多くの知識人にはあって、そうした思いが、日本文化の純粋化への希求を駆り立てた。しかしそれは徒労だというのが加藤の見方である。日本文化の雑種性は、実証的な意味での事実なのであり、それを簡単に変えるわけにはいかない。だいたい、文化の純粋性という考え自体が、西洋的な基準に基づいている。だから、そんな馬鹿なことを考えないで、雑種は雑種なりに、そのいいところを伸ばし、悪いところを改めるべきというのが、加藤の基本的なスタンスである。これは、雑種性の上に開き直っているとみるムキもあるかもしれぬが、開き直るも何も、そもそも雑種なのだから、それを認めて、そこから出発すべきだというのが、加藤の姿勢なのである。

以上は、東西文化の比較にもとづく形式論的な議論であるが、もうすこし日本文化の内実に立ち入って、実質的な議論を展開して見せたのが「日本社会・文化の基本的特徴」である。これは1984年に書かれているから、「日本文化の雑種性」から五年後のことである。この五年の間に加藤は、日本文化の内在的・実質的特徴について考えを掘り下げたのであろう。その結果加藤がたどり着いた結論は、日本文化の基本的な特徴として、次の四点をあげるというものだった。

第一に競争的集団主義、第二に現世主義、第三に現在主義、第四に独特の象徴体系である。競争的集団主義というのは、社会全体が集団を中心に動いていることをさす。集団が個に優先し、集団内部では上下関係が働き、集団相互の間には競争原理が働く。これは古来から一貫して日本社会の基本的な特徴だったと加藤は考えている。もっとも古代の日本社会について実証的な検証をおこなっているわけではないから、現代日本に当てはまる原理を、過去に投影したという批判は免れないだろう。

現世主義というのは、現世こそがすべてであり、現世を超越した普遍的な原理はないと割り切る態度である。それを時間軸に移し替えると、現在主義ということになる。現在主義とは、過去を忘却し、未来を考えないことである。だから本来の意味での時間がそこにはない。それゆえ歴史意識も成立しない。こうした現在中心主義はかつて丸山真男が指摘したものであるが、その丸山の指摘を加藤はソフィスティケートしたわけである。

日本独特の象徴体系とは、集団の秩序を保つシステムのようなものである。日本的集団の特徴は、極端な形式主義と主観主義だという。人間相互の関係や集団相互の関係が、普遍的な原理によって裏付けられておらず、うわべの形式とか感情的な雰囲気とかいったもので動いている。議会での議論においてさえ、「お互いにわかっているじゃないですか」というようなことが平気でいわれるが、それは同じ象徴体系を共有している者相互だけに通じる。そうしたきわめて主情的な態度が日本社会全体を通じて指摘できると加藤はいうのである。

日本文化における形式的な雑種性と、以上四つの内在的な特徴とが組み合わされるとどういうことになるか。その結果を思わせる一例として加藤は、日本人の外国観をあげている。その「日本人の外国観」と題した小論の中で加藤は、日本文化が雑種文化として外国の影響を強くうけているのにかかわらず、じっさいには孤立しているという感情を抱いているとする。その孤立の自覚が孤立への恐怖を駆り立てる。その恐怖は、孤立を破ろうとする努力を生み出す一方、孤立を正当化する傾向を助長する。孤立の正当化が、「外国人にはわからない日本のよさ」とか、「世界に比べるもののない日本のよさ」に進むと、国家主義イデオロギーが生じるといって、加藤はそうした傾向に警鐘を鳴らしている。

加藤としては、日本文化はそもそも雑種性を生命としているのであるから、それを自覚して、そのよいところを伸ばすというのが望ましい姿勢だと考える。昔は中国一辺倒といえる中国びいきだったものが、いまでは西洋一辺倒になっている。そこには悪い点もあるが、良い点もある。だから悪い点を自覚しながら良い点を伸ばすというのが現実的だと加藤はいうのである。






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