ハンガリー映画「ニーチェの馬」:世界の終末

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2011年のハンガリー映画「ニーチェの馬 タル・ベーラ監督)は、世界の終末をテーマとした黙示録的な作品。ハンガリーの寒村で二人でわびしく暮していた父と娘が、世界の終末に直面し、ついには自らも亡びていく過程を描いた非常にショッキングな映画である。これまでディストピア化した世界を描いた作品は多く作られたが、世界の終末をテーマとしたまじめな映画は、イングマル・ベルイマンの「第七の封印」とこの作品の二つだけではないか。

父と娘の六日間の生活が描かれる。映画全体を通じて、セリフは極端に節約され、なかば無言劇といってよいほどである。映画の中で起きる出来事は非常に限られ、しかも単純なので、わざわざ言葉で説明しないでも、父と娘の振舞いから十分伝わってくるのである。画面もわざわざ白黒にしてある。世界の終末にふさわしいと思ったからだろう。

映画は、外出先から帰った父親を、娘が面倒を見る様子をうつす場面から始まる。娘は父親を着替えさせ、それを父親は当然のこととして受け入れる。父親が自分で着替えできないのは、右手がきかないからだということが、すぐにわかる。父親は左手だけで食事をするのだが、それは右手が動かないからだ。かれらの食事は日に二回、茹でたジャガイモを食うだけである。一日二個のジャガイモで人間は健康で生きていけるのか、そうした疑問は無視される。かれらは一日二個のジャガイモがあれば、生きていけるのだ。かつて日本人の宮澤賢治は、一日四合の飯を食えばよいと歌ったものだが、ハンガリー人はジャガイモ二個で生きていかれるわけだ。外は猛吹雪が吹き荒れている。56年間聞きなれてきたキクイムシの鳴き声が聞こえない。これが異常の始まりだった。

二日目の朝、娘は井戸に水を汲みにいく。その後父親を着替えさせ、気付けの焼酎を飲ませ、ジャガイモを食い、また、馬を馬車につなごうとする。馬車は移動手段なのだ。ところが馬が言うことを聞かない。飼い葉を食おうともしない。これが二番目の異常だった。隣人らしい男がやってきて、焼酎を売ってくれという。町で買えというと、町はすでに嵐のために崩壊して、何もないという。さらに男は、これは人類に下された罰なのだと講釈する。というより、神がいない現在では、人類が自らを裁いたのだ。そんな男を父親は、いい加減にしろと言って追い出す。

三日目に、旅の流れ者の一行が馬車でやってきて、井戸の水を勝手に飲む。かれらを父親が鉈で脅かす。彼らは立ち去り際に、娘に謝礼の品を渡す。聖書である。娘はその聖書の言葉を読む。教会は踏みにじられたと書かれていた。

四日目、娘が井戸にいくと、水が枯れているのに気づく。水がなければ生きてはいけない。そこで父親は移住を決断する。荷車に家財をつんで、馬を伴って出ていくが、馬は使えないので、娘が車を引っ張るのだ。だが、しばらくして戻ってくる。強い風の中を進むことができないのだ。

五日目、馬がだいぶ衰弱の様子をみせる。父と娘は危機感を覚えるがどうしようもない。夜にはランプの灯がつかなくなる。油はあるのにかかわらずである。娘は不安をつのらせ、いったい何が起きるのであろうかと不審がる。父親は知らんと答える。

六日目、夜が明けると嵐は静まったが、世界は闇に包まれたままである。ついに終末が訪れたのだ。二人はその終末の闇に沈み込んでいく。

以上、きわめて異常な情景を淡々と描いた作品である。じつにショッキングでスキャンダラスな映画といえる。作者がこの映画を通じて何が言いたかったのか、それはよくわからない。グローバルな資本主義システムの破綻を揶揄したつもりか。

タイトルに「ニーチェの馬」とあるが、ニーチェが出てくるわけではない。ただ、神の不在とか世界の終末といったモチーフは、ニーチェを感じさせないわけではない。





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