仏性その三:正法眼蔵を読む

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仏性の巻の第九段落は、馬祖下の尊宿塩官斉安の言葉「一切衆生有仏性」についての評釈である。この言葉は、釈迦の初転法輪で説かれた言葉として「仏性」の巻の冒頭で取り上げられていたものであるが、それをここでは、違う角度から再び取り上げたものだ。仏性とは、仏になるべき可能性とか素質とかいうものだが、それが一切衆生に備わっているのだということが、すでに冒頭の部分で確認されていた。それを踏まえて、「衆生これみな有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり」と説かれる。「有仏性」であって、「即仏性」ではない。「即仏性」というと、衆生がそのあるがままの姿で仏性だということになるが、そうなると修行の意義がなくなるので、「有仏性」というのである。その上で、「有仏性の有、まさに脱落すべし」という。この「脱落」という言葉が難物である。「心身脱落」というと、心身を脱落して、ものの形にこだわるな、という意味合いになるが、「有を脱落」というと、存在にこだわるなという意味になるのかどうか。

第十段落は、大潙山大円禅師の言葉「一切衆生無仏性」について。これは、前の段落の言葉と正反対であるし、また、釈迦の初転法輪とも矛盾している。なぜこんな言葉が、ここでことさらに取り上げられるのであろうか。ともあれこの言葉の意味は、「一切衆生には仏性がない」ということである。先に、「一切衆生には仏性がある」と言っておきながら、なぜそれと正反対のことをいうのか。禅坊主はいろいろと言いつくろって人を煙にまくのが得意なようだが、「有仏性」と「無仏性」とが、いずれも真実だとするならば、なぜそうなのかを、理屈でわかるように説明せねばなるまい。理屈では、「有仏性」と「無仏性」が同時に成り立つことはない。排中律に違反するからだ。だから、理屈ではなく、別の基準が必要になる。そのことを道元もわきまえていて、「有無の言理はるかにことなるべし」と言っている。有と無では、よってたつ基準が違うということだろう。

第十一段落は、百丈山大智禅師の言葉「仏は是れ最上乗なり」以下についての評釈。「乗」は乗り物のこと。仏は最上の乗り物だというのである。この「仏」は人格的な概念ではなく、抽象的な概念で、仏の教えとかさとりの境地とかいった意味である。それが「最上乗」というのは、べつに珍しい物言いではなく、大乗仏教の基本的な考えである。ここで注目すべきは、その車が因果を連載し、「生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず、五陰に処して門の開くるが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり」と説かれていることである。生死を超越し、しかも現実に対して開かれているというのである。

第十二段落は、黄檗と南泉との間のやりとりをめぐるもの。黄檗は黄檗宗の開祖であり、南泉は馬祖道一の法嗣である。その南泉が黄檗に向かって、「定慧等学、明見仏性。此の理如何」と問うたことから、両者のやりとりが始まる。問いの意味は、「定(禅定)と慧(智慧)を等しく学べば、明らかに仏性を見るというが、その理は如何」ということだ。その問いに黄檗が、「十二時中一物にも依倚せずして始得ならん」と答える。「依倚」は寄りかかるという意味。常になにものにも寄りかからぬというのがその言葉の意味だ、といっているわけだ。論点ずらしのようで議論がかみ合わない。そこで黄檗は議論からおりる。道元はこの両者のやりとりを仲介して、「等学するところに明見仏性のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり」という。等学したから明見仏性なのではなく、明見仏性であるから等学なのだと言っているわけである。道元はここでは、黄檗の肩を持っているように聞こえる。

第十三段落は、趙州真際大師をめぐる逸話。趙州従諗は六十歳をすぎて法門に入り、多くの逸話を残した人物。その言葉は禅宗の「公案」として、多く語り継がれている。その公案の中で、「狗子仏性」と呼ばれるものは、「無門関」の第一則に取り上げられるなど、非常に有名なものだ。この段落は、その「狗子仏性」について評釈したものである。ある僧が趙州に向かって「狗子に仏性があるかどうか尋ねたところ、趙州はないと答えた。僧が、「一切衆生皆有仏性」と仏は説いておられるのに、なぜイヌには仏性がないというのか、と食い下がると、仏性は「無」であるから、イヌも無なのだ、と答える。この無は「空」のことである。

第十四段落は、先と同じ質問を別の僧がすると、趙州があると答えた、そのことについての評釈である。これは前とは矛盾した答え方だが、その矛盾は、以前の段落の「一切衆生有仏性」と「一切衆生無仏性」に通じるもの。この矛盾を説くためには、狗子といい仏性といい、それらを自性をもったものとして捉えず、すべては自性のない空だとすることで、解決のつくようなことがらである。だから、この公案は空をモチーフにしたものだと考えればよいということになろうか。

最後の(第十五)段落は、長沙景岑和尚と竺尚書の問答を取り上げたもの。竺尚書が長沙に向かって、「虹矧斬れて両段と為る、両頭倶に動く。未審、仏性阿那箇頭にか在る」と問う。ミミズが二つに断たれてどちらにも頭が生えてきたとき、どっちの頭に仏性があるのか、と問うたのである。それに対して長沙は、「妄想すること莫れ」と答える。つまらぬことを考えるな、というのである。尚書が食い下がって質問を続けるがまともな議論にはならない。そういうことを考えること自体ナンセンスだというのである。この段落の最後に、「三頭八臂」という言葉が出てくる。これは頭が三つで腕が八本という意味だが、それを岩波文庫の注釈は「つじつまがあわない」ことのたとえと解釈しているが、森本和夫は、「形を超えた形というべきもので、あらゆる決めつけを超越している」と解釈している。考えすぎではないか。





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