交錯する人権と外交

| コメント(0)
岩波の雑誌「世界」の最新号(2,023年7月号)が「交錯する人権と外交」という特集を組んでいる。これはウクライナ戦争に関して、日本を含めた「西側」の諸国が、ウクライナに加担してロシアと対立することの大義名分として、人権とか法の支配といった「普遍的価値」を持ち出してることについての、違和感というべきものをテーマとしたもので、寄せられた数編の小文は、いづれもそうした西側の主張への批判を表に出している。

三牧聖子の「ウクライナ戦争が突き付ける問い」は、西側が持ち出す「法の支配」の二重基準を問題にしたものだ。これはほかならぬアメリカの若者の間に広がっている見解で、アメリカは自分では「法の支配」とか「人権」とか言っておきながら、自分自身はそれを守っていないことを問題にしているという。アメリカ政府は、ロシアの非人道的な行為に対しては声高に非難しているが、イスラエルによるパレスチナ人への非人道的な行為には眼をつぶっているというのが、二重基準の最たるものとしてあげられる。そうしたアメリカの二重基準には、アメリカのやることだけはすべて認められるという「例外主義」の考えが反映されているとして、これほど傲慢な考えはないと批判している。

阿部浩己の「徴用工問題と国際法」は、いわゆる徴用工問題についての日本政府の欺瞞的な姿勢を批判している。この問題について日本政府は、1965年の日韓請求権協定を唯一の拠り所として、日本側には、当該企業を含めて一切の責任はないとするが、これは現在の国際法の考え方からも逸脱した、きわめてご都合主義的な解釈だと指摘する。この問題について日本政府は、韓国の大法院の判決が国際法に違反した不法なものだと批判しているが、そうした批判は、自分の人道上の責任を棚上げした無責任な態度だというのである。とりわけ、あたかも日本側には、企業を含めてなんら責めらるべきものはないとする主張には、国際社会の常識から著しく逸脱するものがあると指摘している。

五十嵐元道の「アメリカが語る正義を冷めた目で見る」は、アメリカが正義を語りながら、自分が犯してきた不正義には一切頬かむりしていることに、疑問の目を向けたものだ。ベトナム戦争での不法行為を典型として、アメリカはこれまで、さまざまな国に対して不法極まりない行動を繰り返してきた。そうした行動は、傲慢な自国中心主義に毒されたものであり、いささかの正義もない。そのアメリカがロシアの戦争犯罪を非難するには、まず自分の犯した戦争犯罪を反省することが必要であろう。でなければ、アメリカのいう正義は、これまでアメリカによって蹂躙されてきた人々をはじめ、世界中の理解を得ることはできないだろう。アメリカだけではない、「ヨーロッパ諸国による植民地支配の歴史にかんがみれば、欧米全体が欺瞞に満ちた正義を語っているように映る」というのである。

以上は、とくに人権とか法の支配に関したものだが、古関彰一の「緩み始めた日米同盟の絆」は、最近の日本外交をめぐる問題について論じたものである。これは日本が最近外交的な孤立状態に陥っていることを指摘したもので、その原因として、LBGTQなど人権にかかわる問題で、日本が国際水準からひとり逸脱したままの状態をあげている。日本政府は、人権上の取り組みの遅れを、各国駐日大使連名の文書で指摘され、その改善を求められながら、すこしもそれを深刻に受け止めている気配が見えない。これでは日本は、人権小国だといわれても仕方がない。

まあ、こんな具合に、西側諸国が正義とか普遍的価値といいながら、じっさいにはそれとはうらはらの欺瞞的な態度に徹していることを、この特集は冷笑するものとなっている。とりわけ日本政府には、冷笑的である。日本が、行動面のみではなく理念の面でも。法の支配とか人権といった価値を重んじていないことを、それは反映しているのであろう。





コメントする

アーカイブ