小悪党の父親と精神薄弱の息子:ドストエフスキー「虐げられた人々」

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小説「虐げられた人々」には、虐げられる立場の人と虐げる立場の人が出てくる。虐げる立場の人の振舞いが非人道的であればあるほど、虐待は凶悪化し、虐げられる人々の苦悩も深くなる。だから、虐待をテーマに小説を書こうとしたら、虐待する側の人間を、思い切り悪人として描写せねばならない。この小説で、その悪人を代表するのは(というより唯一の悪人は)、ワルコフスキー公爵である。たしかにワルコフスキー公爵は、悪を悪として楽しんでいるふうがあり、かなりな悪人には違いない。ところがその悪党ぶりが、どうも中途半端なのである。かれはイフメーネフ一家や、ネリーの死んだ母親をひどい目にあわせはしたが、それはケチくさい打算によるものであって、悪事としてはスケールが矮小なのである。だからかれは、悪人とはいっても中途半端な悪人、世にいうところの小悪党にすぎない。

一方、ワルコフスキーの息子アリョーシャは、精神薄弱者として描かれている。かれはナターシャとの愛を弄ぶような仕方で彼女を深く傷つけ、しかも捨ててしまうのである。だからかれも悪党のたぐいと言ってよい。しかし本物の悪党ではない。悪党には悪党なりの責任能力があるといえるが、かれにはそういう能力はない。明白に禁治産者といってよいほど、意思の自律性を欠いており、それを父親からコントロールされているだけで、責任能力はまったく持っていないのである。だからアリョーシャのなした行為については、誰も責めることはできない。そこはナターシャもわかっていて、アリョーシャには、自分の意思で行動することを求めるのは無駄だと知り、彼が自分を捨てるのを、だまって享受したのである。

こう書くと、ナターシャをはじめ虐げられる立場の人々が、或る意味馬鹿げた境遇に陥っているように思える。かれらを虐げているのは、ケチな了見の小悪党で、対処如何によっては反撃することも可能だろうが、かれらにもそんな能力もなく、ただただ己が不運を嘆くほかはない。これは虐げられる人々に即して言えることにとどまらず、小説の語り手にも言えることだ。語り手の語り方にはいろいろなやり方があるはずで、虐待の当事者(虐待する側と虐待される側)の関係を客観的な視点から描きだすこともできたはずなのだが、どういうわけか、この小説の語り手は、虐待がある意味自然なことであって、それを人間の手で防ぐことはむつかしいし、ロシアの現実となじまない、というふうに思い込んでいるふうがある。つまり、ロシアでは、人間同士の虐待関係は天の摂理を受けたごく当たり前の現象だと思い込んでいるようなのである。

ワルコフスキーは、この小説の中では、二組の人間たちにひどい虐待を働いたことになっている。一組は、ネリーの母親とその父(つまりネリーの祖父)。かれらを、金もうけの手段として弄んだ挙句破滅させた。もう一組は、イフメーネフとその娘ナターシャ。イフメーネフに対しては根拠のない中傷と攻撃を加えて破産させ、ナターシャに対しては、自分の息子アリョーシャとの愛を引き裂いた。その裏には、ナターシャを他の裕福な女と結婚させ、その持参金をせしめようとするケチな打算が働いていた。二組のどちらの場合も、小金をもうけたいというじつにケチくさい動機が働いていたわけであり、そういう意味でワルコフスキーは小悪党だと言うのである。

ドストエフスキーの成熟期の小説には、迫力満点の本格的な悪人が登場する。それらの悪人は、経済的な動機よりも、もっと精神的な動機に基づいて悪事を働く。その悪行はだから、信念に裏付けられたものであり、そういう点では悪魔的といってよい。ところがこの小説の中のワルコフスキーには、そうした精神性は一切感じられない。かれはただ金が欲しくて他人を利用するだけの、利己的でけちくさい小悪党に過ぎない。ドストエフスキーの悪党像の中では、スケールが小さい。だが、後のさまざまな悪党たちの先駆者としての意義は、ドストエフスキーにとってはあったといってよかろう。

そんな小悪党を父親に持ったアリョーシャのほうは、父親の影響から自由になれないという点で、小悪党に操縦されるみじめな倅という位置づけである。いわば人形遣いに操られる人形、猿回しのサルのようなものである。その猿の愛がなぜナターシャの心をとらえたのか、そこがいまひとつ曖昧な書き方になっている。ナターシャとアリョーシャの愛は、この小説のもっとも核心的な部分であるから、かれらの愛に不純な部分があるとすれば、小説の展開にとっては、ゆゆしい傷になるといえる。だがドストエフスキーは、その愛をとことん追求することはせず、曖昧なままに終わらせている。それは一応、ワルコフスキーのたくらみが成功したということを意味しているが、そんな悪だくみに圧倒されるような愛ならば、それは真の愛とは言えないだろう。その理由としてドストエフスキーは、アリョーシャが精神薄弱者であって、自分では正常な判断ができず、保護者である父親の意向に従わざるを得なかったということにしているが、しかしそんな愛がまともな愛と言えるだろうか。一方ナターシャのほうも、自分がなぜアリョーシャを愛してしまったのか、そのことに自覚的ではなかったようだ。本当に愛しているのなら、命をかけてアリョーシャを自分のもとに引き留めるだろう。ところが彼女は、アリョーシャに新しい思い人ができると、あっさりその思い人に恋人を譲ってしまうのである。そんな愛が本物の愛というわけにはいかないから、ナターシャははじめから、アリョーシャを心から愛しているわけではなかったというふうに思わせられるのである。

ともあれ、この小説の中のアリョーシャは、かなり影の薄い人物として描かれているとはいえ、後にドストエフスキーの小説世界で大きな存在感をしめすことになる、一連のユニークな人物像(「白痴」のムイシュキン公爵、「カラマーゾフ」のアリョーシャなど)の原型となるものである。それらの人物像には、ドストエフスキー自身の精神障害体験が反映されているといわれるが、この小説の中では、むしろネリーのほうがてんかん発作を繰り返す精神障害者として描かれている。アリョーシャのほうは、精神障害者(精神病者)というよりは精神薄弱者(知恵遅れ)としての位置づけである。






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